北村(中世)
鎌倉期に見える村名。美作国英多【あいだ】郡河会郷のうち。寛元4年3月29日の渋谷定心譲状案(入来院家文書)によると渋谷定心から四郎重経に譲った所領の1つに「一所美作国河会郷十町村河北 堺〈東限自練金山右河流 南限同河流 西限白箸峰中安大石瀬 北限江見堺〉」と見え,当地は河会川と推定される川の北に位置し,粟田宮領江見荘に南接していたことが知られる。建長5年11月29日の渋谷定心・同明重連署譲状案(同前)に「一所河会郷十丁北」と見え,定心から同重経に譲られ,同7年6月5日の将軍(宗尊親王)家政所下文案(同前)で安堵されている。建治3年9月13日の渋谷定仏(重経)譲状案(同前)によると,重経は孫の竹鶴に河会郷内の所領などを譲るが「十丁のきたのむらさかい,ほんゆつりしやうにミへたり」とあり,当村が定仏流が持つ同郷内所領と,渋谷善心(明重)流の持つ河会郷内上山村・下村・中村などの所領との境となっていたものと推定される。竹鶴への譲りは弘安元年6月3日の関東下知状案(入来院家文書/入来文書)で安堵されるが,同年頃と推定される年月日未詳の尼妙蓮等重訴状案(入来院家文書)によると,定仏遺領を巡って重経後家妙蓮・子息重通・竹鶴と重経の子重員(為重)とで相論となった。重員は,義絶された身であるにもかかわらず,「爰重員十町北村下向刻,帰令旧妻居置当村,令付置左近入道於代官之間,雖為鎮西下向跡,当村押領之」として,重員が薩摩国入来院内の所領に下向している間,当地には代官などを置き押領を続けていたことが分かる。同時期と推定される年月日未詳の渋谷為重陳状(同前)で重員は当地へ押領の訴えに反論するが,弘安2年12月23日の関東下知状案(同前)により,当地などをはじめとする定仏遺領は重通方に安堵されている。
解説文を自分にメール![]()
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416042
最終更新日:2009-03-01