ケータイ辞書JLogosロゴ 北賀茂村(中世)


岡山県>加茂町

戦国期に見える村名美作国苫東郡のうち荘名でも見える地名としては南北朝期から見え,永徳3年3月2日の肥塚範重檀那譲状(肥塚文書/兵庫県史史料編中世2)に播磨広峰社々家肥塚範重から舎弟小四郎(家重)に譲与した檀那のうちに「北賀武(茂カ)〈宇野ふる屋〉〈市場光阿〉」と見える応永33年卯月27日のほうしゅん檀那職譲状(肥塚家文書)では,式部という者に譲与した檀那のうちに「きたのかものうのゝふるや」と同様に見えるさらに,文明14年8月10日の檀那村書注文の美作国分のうちに「又北の賀茂之内ふるやの左近」とあり,天文14年2月吉日の檀那村付帳にも「きたのかもノ内くもん名」のうちに「太郎ゑもん」をはじめ4名の檀那が記されている(同前)灯心文庫本「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年12月9日条に「美作国北賀茂九郎兵衛進上材木船五艘」と見え,牛窓・虫上(虫明か)の船籍の船が当地の九郎兵衛が進上した材木を運送している中世末期と推定される年月日未詳の檀那村書(肥塚家文書)に「きたのかも村 宿ハ三郎ゑもん ふなや」と村名で見える年未詳7月5日の浦上宗景判物写(美作古簡集註解上)によれば,浦上宗景から安堵された渋谷長右衛門尉の所領中に,「北賀茂庄内四名分之事」とあり,荘名を付されているが,戦国期以前に当地が荘号を有していた史料はない天正7年と推定される11月2日の小早川隆景外二名連署状(吉川家文書2/大日古)によれば「祝山北賀茂中間一城之儀」とあり,宇喜多勢の進攻に備えて祝山城と北賀茂(草刈氏の拠る高山城か)の中間に付城を築いたというまた,同8年と推定される10月14日の吉川元春書状写(萩藩閥閲録)によれば,祝山城(現津山市)在番衆の湯原春綱などに宛て,備前宇喜多の来襲に際し毛利輝元・小早川隆景の備中出陣,元春の救援を報じているが,その中に「北賀茂」が見える当地は倉見・堂ケ原・原口各川の合流点付近の現加茂町宇野から加茂川沿いにかけての地域の呼称とも考えられる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416061
最終更新日:2009-03-01




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