北美和荘(中世)
室町期に見える荘園名美作国苫東郡のうち室町期の応永〜文安年間当荘は公家衆の万里小路家領であった万里小路時房の日記「建内記」に当荘に関する記事が散見する「建内記目録」応永35年3月条に「北美和庄事」がはじめて見え,その頃までには万里小路家領になっているが(建内記10/古記録),成立年代などは未詳応永16年には富田俊親が所務代官で(建内記嘉吉元年7月25日条/同前),同34年から正長元年にかけては美作守護赤松氏被官の富田三郎左衛門入道が当荘の請所代官であったが,年貢を未進している(同書正長元年10月17日条/同前)当時万里小路家は当荘領家職・公文職を一円的に領知していたが(同書嘉吉元年7月14日条/同前),直務(直接支配)をできず,正長元年7月28日万里小路時房は,将軍近習で申次の任にあった大館満信を通じて幕府から直務を容認してもらおうと図った(建内記/古記録)なお,永享3年11月4日当荘の年貢のうち2,000疋が万里小路家の諸大夫美濃守行国に給分として与えられている(同前)また,当荘に関していえば,京都鷹司堀河の無量寿院,土御門室町の浄花院,安居院大宮の花開院などの寺家から万里小路家は借銭し,その返済に当荘年貢の来納分を充てている同7年12月24日の万里小路時房借用状(建内記永享11年2月記紙背文書/古記録)によれば,時房は無量寿院良意から7貫文を借りていたが,毎月貫別40文の利子で当荘年貢のうちから代官が直接銭主の無量寿院へ返済することになっていた嘉吉の乱後,赤松満祐に代わって山名教清が美作国守護に補任されると,万里小路家は当荘の所務を一年に限って山名教清被官の大町清守に預けたが(同書嘉吉元年7月14日条/同前),美作材木奉行梵普副寺が地下人らを語らって山名氏被官人を当荘から追放し代官職を競望したという(同書嘉吉元年7月28日条/同前)大町氏は同年8月正式に代官職に補任されたものの請人(証人)を立てなかったので承認されず(同書同年9月15日条/同前),一方梵普副寺も採用されず,結局は相国寺恵林院内
芳軒等嘉都寺が新代官に任じられた(同書同年9月17日条/同前)新代官等嘉都寺も山名教清被官谷口越前守の違乱によって直務の実効をあげ得ず(同書同年閏9月6日条/同前),万里小路家の依頼を受けた幕府は守護山名氏に遵行命令を下したが,山名氏はこれに応じなかった嘉吉元年閏9月15日,嘉吉の乱で死去したと思われる前代官富田性有が赤松満政に投降して命を保ち,当荘代官職の復帰を申し出ている(建内記/古記録)ただ,同年10月5日に相国寺乾正都寺,同寺の等嘉が当荘の両代官として登場するから富田氏の代官職再任は実現せず,万里小路家の直務支配は存続したらしい(同前)その後,山名氏は赤松氏の前例に習って守護請を切望している(建内記嘉吉元年12月19日条/古記録)嘉吉3年には高山清重,文安4年5月には大町曽俊が代官として見え,山名氏被官による代官請負制が実現したとみられる(建内記/古記録)文安4年6月摂津・播磨・備前・美作の万里小路家領は仏洞(称光院)から召し上げられたため(同書文安4年6月記紙背文書/同前),時房は西園寺大納言(実種か)に相談しているしかし,この様な危機にもかかわらず当荘はその後も「建内記」に見えるので,万里小路家領としての当荘は存続したらしい同書文安4年12月17日条(古記録)に「去々年〈文安弐〉北美和残千九百疋余」とある記事を最後に当荘に関する「建内記」の記事は見られないなお,同書に収める年月日未詳の文書中に,当荘の年貢は富田氏が代官の頃の請負額は180貫,当時は増加して2万疋になったという(古記録)なお,美和荘と当荘との関係は詳らかでない荘域は加茂川と原口川の合流する加茂町域と推定されるが,詳細は不明
解説文を自分にメール![]()
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416104
最終更新日:2009-03-01