佐川村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。高岡郡のうち。佐川本村および内原村からなる。土佐藩領。慶長6年8月19日の山内一豊知行宛行状には「五十九町四十四代壱分 佐川本村」と見え,ほかに内原村25町6反余が記され,佐川領として重臣の深尾与右衛門に宛行われている(深尾文書/佐川町史)。村高は,寛永地検帳886石余(南路志),寛文7年の郷村石付でも同高,寛保3年の郷村帳885石余,「天保郷帳」916石余,明治3年の郷村帳では972石余(本田885石余・新田86石余)。元禄地払帳によれば,本田885石余うち深尾若狭知行835石余・青源寺領49石余,新田は深尾若狭役知で16石余。土佐藩家老深尾氏の膝下の地として,佐川本村・内原村・三野本村・荷稲村・室原村・庄田村の一部を含んだ地域を佐川郷という。村切により,中世の佐川郷から永野村・谷地村・尾川村が独立し,度賀野荘から鳥ノ巣村が三野村に入り,斗賀野西山を折半し尾川村に入る。また庄田村は佐川本村の飛地となった。庄田村が加わったのは領内総鎮守の鯨坂八幡宮があることによる。寛文7年の郷村石付によれば,前記小村中の内原村は佐川本村へ,そのほかの小村は三野本村へ入る。当村は佐川郷の中心地で領主深尾氏の居住地。深尾氏は赴任とともに久武氏の佐川城(石之尾城)を増改築して居城としていたが,元和元年の一国一城令により,翌2年東山麓の磐井谷に下り,壮大な土居館を構えた。この館は東西71間・南北178間の規模をもつが,のちに南に拡張され,背後の山は桜樹で満たされた(深尾旧事草記)。藩制に准じ,郭内を定め,その中に家中町・町人町を包含し,この地以外での商売を禁じた。当時の郭内は,東は目細谷・中桐から西は松崎曲り淵まで,その中の磐井谷川の市中を横断する橋より東を御家中町とし,町人町は,同橋より西の西町,秋葉山の出鼻までを称した。寛文12年の町絵図により初期の規模を伝えると,東から中世松音寺谷村の三反田に由来した三反田町は長さ60間・27戸,町辻の御札場を介して中町60間・20戸,これより2筋に分かれて南筋は西町120間・35戸,北筋は古市町138間・35戸,その2筋道を南北に結ぶ東通りは40間・4戸,西通りは20間・6戸となっている。これから北西は郭外となり,松崎・肥代ノ坂で三野村と境し,春日川右側の郷分においては東の切塞から始まる内原村城付(松尾城)25町6反が本村に加わる。この地域を小村別に記すと,小谷地・蔵法院・内原・小池・春日・久万田と下り,三野村と界する。この小谷地から小池に至る郷分を一般に上郷と呼んでいるが根拠はなく,領主居館地付近に対する尊称が伝承されたものである(深尾墓碑銘)。江戸末期における市街名は,その発展により増大・変化し,三反田町の名は消えて東上町・西上町・新丁・新町・出来町・古市町・新市町・松崎・肥代ノ坂となった。「土佐州郡志」によれば,「東限加茂界切塞坂峠高知之通路也,西限三野界比代之坂山山分之通路也,南限斗加野界猿丸山峠海浜之通路也,北限三野界小池山,東西二十三町余,戸凡三百六十六」とあり,小村には土居・内原・蔵法院・小谷地・久万田・松崎・西谷の諸村がある。寛保3年の郷村帳では,戸数262・人数1,089(男601・女488),馬68・牛14。享和元年の「西郷浦山分廻見日記」によれば,庄屋北川喜助,高885石余,土免6ツ余,新田16石余,田8分・畑2分,家数330軒許・人数1,237,馬67,酒店9で,「地方田方勝,作間働町分諸作事日用・酒店日用・家中作事等有之,実者土居下ニ付相応ニ働も有之,猶去秋畑もの取実有之,当春夫喰相払底も不仕,当時極困無之」とある。慶応年間町絵図では家数500余。寺社は,「土佐州郡志」では青源寺・乗台寺・妙像寺・明源院・光明寺・権現社・池田権現社・松尾八幡社・春日大明神社・城八幡社・牛王権現社・天神社,「南路志」では松尾八幡・春日大明神・弁財天・牛王権現・蔵宝院権現・八幡権現中山権現相殿・大己貴命大国神事代主命蛭子神相殿・池田権現・天満天神・城山八幡・本丸権現・天満天神・地蔵・大師・院家一院・吉祥山寿命院乗台寺・竜淵山青源寺・松尾山明源院・本具山真善院妙像寺・修南山悟真院光明寺・大泉寺・法城寺。明治新政により商家の佐川独占廃止と領主および上士階級の高知移転に伴い,町場は急速に衰退した。村内の数多い寺院も,明治初年の排仏毀釈により,明源院・大泉寺・新福寺(安楽院)・光明寺・東光寺が廃寺となり,妙像寺・法城寺・青源寺・乗台寺が残存した。このうち日蓮宗久遠寺直末妙像寺は深尾土居邸の鬼門除けの寺院として,元和8年に開基された。臨済宗青源寺は深尾氏菩提寺として慶長8年に遠州掛川の前任地より勧請されたもので,領内一の寺格をもつ。真言宗山城醍醐報恩寺末(明治末期は智山派)乗台寺は領主祈祷寺に指定された古刹で,中世三野氏・中村氏・久武氏の菩提寺であった。家士教育施設としては家塾名教館を安永元年土居邸内に創設,天保元年郷校として菜園場(東上町)に独立校舎を創建し数多くの人材を育てた。元治元年脱藩した田中光顕(号青山)ら勤王の士たちもこの門に学び,少年時代に植物学者牧野富太郎もここで明治初年を過ごしている(わが町の文化財と旧跡)。明治4年高知県に所属。同6年4月郵便役所を東町に開設,同年8月電信線を架設。当村の衰退に対し,隣村三野村との合併による強力な村政の推進が望まれ,その気運も醸成されていたが,江戸期以来の庄田村への土地30町歩の帰属をめぐる利害対立が解決しておらず,同年に両村兼任の戸長が就任したにもかかわらず実効はあがらなかった。同8年役場が佐川村東町に置かれる。同年三野村との合併が成立した。このとき地租改正の便宜上,旧来の佐川本村を甲,柳瀬川右岸地区を乙,左岸地区を丙としたという(佐川町誌)。同11年佐川村に1戸長を置いたが,従来の三野村との確執は解けず,戸長は旧衆議所に午前・午後の半日勤務の状態で,再び分村運動が熾烈となった。同14年村役場を中央の松崎廻り田に移転新築,ようやく合併の実があがりはじめた。同17年四国新道を起工,佐川村有志は市街地甲部廻りを請願,南東の加茂村境の久兵衛坂掘削費を募金負担し甲部巡りの県道が同25年に完成。この間,明治11年須崎警察署分署として発足した警察分署は,同19年大区制の各町村を管理区域としていたが,同22年仁淀川左岸地区は除かれた。江戸期の郷校名教館は明治7年名教学舎から佐川小学と改称,同20年三野小学・松崎小学が合併し,肥代ノ坂に佐川尋常小学校を新築。中等教育においては,県立5中学校中の1校佐川中学校が明治15年発足,2年後高知中学校へ合併される。同20年高岡郡第三高等小学校を設立,今日の佐川中学校の起こりとなる。同22年市制町村制施行による佐川村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7435702
最終更新日:2009-03-01