青柳郷(中世)
鎌倉期〜室町期に見える郷名。筑前国粕屋郡のうち。筥崎宮領。嘉禎3年5月筥崎宮領の本家田中坊宗清(石清水八幡宮別当)は,青柳郷を女房に譲り,一期ののちは子息教清に付するよう処分状を作成した。しかし,教清は不孝により放逐されたため,教清の弟行清の子孫がこれを伝領したと思われる。その後,陶清の子超清が北田中坊を起こす時,青柳郷も割譲されたものか,応永31年超清の孫北良清は,分銭200貫文で青柳郷を田中融清に去り渡し,再び田中坊の伝領するところとなった。享徳3年には青柳郷50町の納分15貫文とあるから,200貫文は10数年分の売価といえる。なお,この去状には,室町期筥崎宮領に施行されていた半済が返還されても,この去り渡しは下地一円のものである旨のことわり書きがある。在地関係としては,正平21年筥崎宮若宮仮殿遷宮の饗膳米のうち3斗5升を進めたのは青柳郷預所幸重であった。文明10年の筥崎宮神事用途注文には,8月15日放生会に青柳郷の社家と地頭方が3石ずつを納め,その他9月9日・10月15日名法花会・霜月御神楽・閏12月などの神事用途を青柳郷が納入したことが見える(石清水文書2/大日古)。この間,正平16年9月の深堀時勝軍忠状によれば,同年8月7日「青柳」において南党菊池武光軍と大友・少弐らの軍とが合戦し,菊池軍が勝利しており(深堀記録証文/佐賀県史料集成4)。また,康安2年(南朝正平17年)10月の竜造寺家経軍忠状にも前年の「青柳御陣」が見える(佐賀文書纂/同前3)。下って,天正年間の「指出前之帳」には「青柳村」と見え,田97町余・分米1,214石余,畠60町余・分大豆300石余。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7437890
最終更新日:2009-03-01