稲崎村(近世)
江戸期〜明治9年の村名筑後国生葉【いくは】郡のうち耳納【みのう】山地東部の北方,筑後川中流左岸の微高地上に位置するはじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛保3年有馬造酒助が70石,石田与右衛門が100石を知行(給知高帳)田代組に属す村高は,「元禄国絵図」65石余,「在方諸覚書」の古高170石,「天保郷帳」100石余,「旧高旧領」228石余宝暦年間頃の役高は272石,久留米より5里30町(在方諸覚書)寛政元年撫7斗8升(筑後上三郡取調手鑑)嘉永元年頃の作柄は「大凡七俵田方,六俵半粟作」(廻村書留)文化4年の耕地は田9町余・畑田6町余・畑1町余(農政農民史料集)水利は大石・長野水道寛文年間頃の庄屋佐藤清兵衛は富光村・安枝村の庄屋も兼任し,同水道築造に尽力した(吉井町誌)享保5年6月の大山汐・大洪水では,「至極破損」という大きな被害を蒙った(石原家記)産土神を祀る天満宮と,藪神辻堂2・伽藍石1がある(寛延記)明治9年新治【にいはる】村の一部となる現在の吉井町新治の一部にあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7438357
最終更新日:2009-03-01