角間村(近世)
江戸期〜明治9年の村名筑後国生葉【いくは】郡のうち耳納【みのう】山地東部の北方,筑後川中流左岸の微高地上に位置するはじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領正徳3年には小倉又兵衛が30石を知行,寛保3年には石野掃部が100石,小倉又兵衛・森崎帯刀で100石を知行(所付扣・給知高帳)石井組に属す村高は,「元禄国絵図」107石余,「在方諸覚書」の古高210石,「天保郷帳」110石余,「旧高旧領」216石余宝暦年間頃の役高は220石(在方諸覚書)嘉永元年頃の作柄は「凡そ田方七俵,粟作六俵」(廻村書留)文化4年の耕地は田11町余・畑田1町余・畑1町余(農政農民史料集)「啓忘録抜萃」の大川筋大淵名に,滝掛瀬・築地瀬・御茶屋瀬があげられている寛文3年築造の大石・長野水道は,筑後川左岸沿いに西下して当村で2流に分かれ,この分水地は角間天秤と呼ばれたなお,当初は水難を恐れて水道築造計画に反対した(吉井町誌)享保5年6月の大山汐・大洪水では大きな被害を蒙り,3〜5割の損毛となった(石原家記)若宮村若宮八幡宮の薬師堂は当村中より造営したものであり(社方開基),村内には氏神を祀る伽藍とがらん神がある(寛延記)明治9年桜井村の一部となる現在の吉井町桜井の一部にあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439141
最終更新日:2009-03-01