上宮田村(近世)
江戸期〜明治9年の村名筑後国生葉【いくは】郡のうち耳納【みのう】山地東部の北方,筑後川中流左岸の微高地上に位置する中世には宮田と見える地内に古墳が散在したが,長野水道の石材としてこわされたという(吉井町誌)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛保3年には岸外記が400石を知行(給知高帳)石井組に属す村高は,「元禄国絵図」334石余,「在方諸覚書」の古高660石,「天保郷帳」339石余,「旧高旧領」755石余宝暦年間頃の役高は596石(在方諸覚書)嘉永元年頃の作柄は「大凡田方六俵,粟作六俵」(廻村書留)文化4年の耕地は田33町余・畑田2町余・畑4町余(農政農民史料集)吉井町から古川村船渡しへ通じる道路沿いの村である村内に福岡藩領から約12町離れている同藩飛地(戸数7)がある逆に当村の飛地1町4反が福岡藩領内にあり,戸数2(鵜匠)である(廻村書留)享保5年6月の大山汐・大洪水では大きな被害を蒙り,3〜5割の損毛となった(石原家記)氏神を祀る椎原八幡宮(のち由須原八幡宮)・阿弥陀堂・観音堂・地蔵堂・辻堂2がある(寛延記)明治9年徳丸村の一部となる現在の吉井町徳丸の一部にあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7439513
最終更新日:2009-03-01