荒河(中世)
鎌倉期から見える地名。薩摩国薩摩郡のうち。承久3年8月21日薩摩国庁の八幡新田宮放生会雑事に関する下文に「流鏑馬二番〈郡司一番 荒河二番〉」とある(権執印文書/旧記雑録・新田神社文書)。これより以前,建久8年の薩摩国図田帳には,薩摩郡内に光富名をあげ「光富名主 荒河種房」とある。すでにこの時点で荒河の地名は生じていたと思われる。鎌倉期に川内【せんだい】市隈之城一帯に勢力をはった薩摩氏一族によって荒河氏は亡ぼされ,荒河の地はその後薩摩氏の有に帰したようであるが,南北朝期にはその薩摩氏も衰亡した。応永10年12月7日付,総州家島津守久の入来院重頼への宛行状に「薩摩国山門院西方之事并薩摩郡之内荒皮,羽嶋之事可有御忠節之由承候間,所置進候也」とあり,この時点で渋谷入来院氏の支配するところとなっている(入来院氏文書/旧記雑録)。戦国期になると,薩州家島津実久が薩摩郡に勢力をのばし,荒河のあたりも支配していたもののごとく,川上上野守に対する天文4年11月7日付の実久感状は,「薩摩国串木野并荒河,市来院之内河上之事,今度依当国錯乱之次第,一段被抽忠義,懇志之段,此三ケ家進之候」としている(川上氏文書/旧記雑録)。しかしほどなく,当地は入来院氏の有に帰し,元亀元年に至って入来院氏から島津氏へ献上された。慶長4年2月20日付で島津義弘が兄義久の娘亀寿へあてた知行宛行状に「くしき野村,あら川村,は嶋村」とある(島津家文書2/大日古)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461157
最終更新日:2009-03-01