一宇治城(中世)
南北朝期から見える城名薩摩国伊集院のうち伊集院町のほぼ中心にあって国鉄伊集院駅の西南300m,伊集院の町並の西を画する標高144m,周囲2,300mの平山城大字は大田に属する山を城山と呼ぶが別名を鉄丸山ともいい,城名は一宇治城が本名で別称を伊集院城または鉄山城といった文治年中伊集院郡司紀四郎時清が初めてここに館を作って住んだといわれ,その後4代を経て紀清忠に至って血統が絶え,島津氏の一族久兼が伊集院に入部して伊集院氏を称した大田の神明神社は「伊集院由緒記」によると「往古伊集院本城内に安置有之,其後大田村之御遷宮」とし,棟札に正応元年初めて勧請し,寛正2年遷宮したというから,正応の頃島津伊集院氏は本城を居城としたものと思われる一宇治城の西部最も高い所を神明城という南北朝期になって伊集院忠国は南朝に味方し,興国元年8月北朝方の島津貞久は市来城を攻略し,さらに進んで伊集院城を攻めた忠国は城をすて(島津国史)古城の平城にのがれたしかし興国7年になると忠国は日置河北・河南の地を攻略している(伊作家文書/旧記雑録)ので一宇治城もまたその手に収めたものと思われる伊集院氏は南北朝戦乱期を通じて勢力を拡大し,室町期には朝鮮との貿易でさらに富強を誇ったが,忠国の玄孫煕久の時に本家の島津忠国と事を構え,追われて肥後にはしり,伊集院氏の伊集院支配は終わった大永6年12月島津忠兼は伊集院を伊作の島津忠良に与えたが翌年6月島津実久が攻略した(島津国史)天文5年3月忠良・貴久父子は実久の部将町田久用が守っていた本城を陥した(同前)島津貴久の妻雪窓妙安大姉は天文13年8月15日当城で逝去し城麓に埋葬した(同前)天文14年3月18日島津忠広,同忠相らは貴久を伊集院に訪い,守護と仰いだ(樺山玄佐自記)ので伊集院城は天文19年暮貴久が鹿児島に移るまで三州守護職の居城となった
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461257
最終更新日:2009-03-01