ケータイ辞書JLogosロゴ 大田村(近世)


鹿児島県>伊集院町

 江戸期〜明治22年の村名。薩摩国日置【ひおき】郡伊集院郷のうち。村高は天明8年で814石余(由緒再撰調),「天保郷帳」では941石余,「旧高旧領」では845石余。天保期の門数15(伊集院郷土史)。鎮守の伊勢神社(神明宮)は正応元年に城山(一宇治城址)に勧請され,寛正2年村の中央に移されたもので,寛文5年の棟札があったという(伊集院由緒記)。同社に奉納される大田太鼓踊は昔報恩寺住職の指導によってできたという言い伝えがある。報恩寺は臨済宗伊集院広済寺の末寺で,伊勢神社の北方300mの神之川の北岸にあった。広済寺7世雪岑は鹿児島藩の琉球使僧として活躍した名僧で,その関係で慶長14年琉球が同藩に降り,尚寧王が将軍に謁するため江戸に上る途中一時報恩寺に滞在したというのでこの地を皇居の地という(伊集院由緒記)。城山の東麓に島津義久が弟義弘・歳久とともに永禄10年に母の菩提寺として建てた曹洞宗千秋山雪窓院があった。天正15年5月島津義久は島津征伐のため川内泰平寺に陣した豊臣秀吉に降伏しようとして伊集院をよぎり,雪窓院内の母の墓に参り,座禅石に坐して剃髪した。同寺は排仏毀釈により廃寺となり,境内の座禅石は剃髪石として残された。村の中央を東西に出水街道とも称する九州街道が通り参勤交代路であったが明治になって国道3等となる(県地誌)。嘉永4年村の西端,神之川にかかる大渡橋が石造眼鏡橋にかけ替えられ,橋の袂に碑が建てられた。文字は当時郡方書役の職にあった西郷隆盛の書いたものと伝えられる。「県地誌」では,戸数183,うち士族31・平民151・社1,人口842,うち士族163・平民679,牛29・馬82,物産には米546石・粟182石・大麦91石・小麦3石余。明治22年中伊集院村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461479
最終更新日:2009-03-01




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