ケータイ辞書JLogosロゴ 上神殿(中世)


鹿児島県>伊集院町

 鎌倉期から見える地名。薩摩国伊集院のうち。建久8年の薩摩国図田帳には,伊集院のうちとして「上神殿十八町 万得」とある。また,鎌倉末期のものと推定される伊集院分造宇佐宮用途支配注文には「上神殿 伍拾疋 米壱石壱升参合伍夕」とある(島津家文書3/大日古)。文保2年3月12日付鎮西下知状によれば,嘉元年間ごろから伊集院郡司紀時継(法名迎念)と上神殿次郎太郎祐継(法名迎祐)とが「薩摩国伊集□(院)内山下・上神殿・土橋以下田畠屋敷荒野等」をめぐって相論し,迎祐の領知が認められているが(島津家文書3/大日古),同文書所引の嘉元4年3月12日付注文には「上神殿」は見えず,「上神殿」は「下神殿」の誤記とみられる。ただし,論人の上神殿祐継は大隅国在庁税所氏の一族で,税所氏系図に税所義祐次男信祐の子息として記載され,道祐ともいい,「伊集院上神殿領知之」と註記されている(地誌備考・備忘抄)。元亨2年10月20日付伊集院上神殿分造宇佐宮用途請取状には当地の宇佐宮造営課役納入分を5斗7升8合と記している(島津家文書3/大日古)。南北朝期に税所氏が衰微すると,当地は伊集院氏の支配するところとなったとみられるが,宝徳2年には伊集院全体とともに当地も島津本家の直轄地となった。永正11年12月15日付の伊集院諏訪祭礼番帳には「七番……上神殿名」とあり(伊集院由緒記/県史料拾遺),島津本家支配下で,伊集院麓の諏訪神社(南方神社)の番役を負担している。この後,当地は島津実久の手に帰したらしく,「島津国史」によれば,天文5年11月29日,島津忠良が実久方の部将有屋田・関・否笠らの籠る「伊集院神殿塁」を攻略し,これを降している。「県地誌」ではこの「神殿塁」を上神殿村の「字上ノ段」と「字中神殿」および下神殿村の2か所に当てている。「伊集院由緒記」所引の上神殿村上之薗山王社の天文8年12月朔日付棟札に「上神殿山王宮依火事奉再興御神体一宇山王二十一社本地種子 大檀那藤原朝臣貴久」とある(県史料拾遺)。「島津国史」永禄7年7月18日条に島津氏が日向真幸の領主北原兼親を「神殿村」に遷したことが見え,兼親の息兼茂の代まで当地に住んだが,天正2年10月5日には曽木本城の菱刈重広に当地が与えられ,菱刈氏は近世初頭に城下に移るまで当地に居住した。なお,すでに引用した史料にあるように当地は中世後期にはしばしば下神殿とあわせて神殿と総称されることがあった。南北朝期の応安8年8月11日付善喜譲状では「神殿内柳田一町」が比志島孫太郎久範に譲与されているが(比志島氏文書/旧記雑録),現在の伊集院町大字上神殿に小字柳田があるので,同史料の「神殿」は上神殿を指すものと判断される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461649
最終更新日:2009-03-01




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