河俣(中世)
鎌倉期に見える地名薩摩国伊集院のうち建久8年の薩摩国図田帳に伊集院のうちとして「河俣十町 万得〈名主僧忠覚〉」とある僧忠覚との関連は不詳であるが,鎌倉後期の文保元年の薩摩国御家人交名注進に河俣入道跡と見え(鹿児島大学図書館蔵玉里文庫古文書類),また元亨4年と推定される鎮西下知状案には河俣弥六郎道治(法名了導)の名があり,当地の領主と思われる河俣とは河川の合流点に由来する地名で,先引の図田帳に土橋・河俣・谷口とする配列順序から考えて,現在の伊集院町清藤付近に位置したと推測されるすでに中世から清藤の名称が見えるので,河俣は清藤の異称か,あるいは,ある時点で河俣から清藤へ改称されたものであろう
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461772
最終更新日:2009-03-01