冠岳(中世)
鎌倉期から見える地名。薩摩国薩摩郡のうち。冠岳の名称は中世史料に頻出するが,それらはほぼ寺社を意味している。6世紀の中頃,用明天皇の勅命により,蘇我馬子が冠岳の東岳麓に1寺を建立,さらに熊野三所権現を勧請して,東岳・中岳・西岳神社を建てたといわれている。この寺を冠岳山鎮国寺頂峯院といったといい,この寺に保存されていた文書を「頂峯院文書」と名づけている。もっとも古い文書は寿永2年8月日付の地頭掾大前宿禰の「可早東谷山主職事」という補任状で,成賀上人を同職に補任して冠岳の住僧らに,成賀上人の命に従うよう指示したものである。この寺や三所権現の成立が寿永2年からどのくらいさかのぼり得るかは未詳。寿永の時代においては地頭大前宿禰とあるように,薩摩国在庁職大前氏の支配する地であったとみえるが,承久2年8月日付の平忠道寄進状は「薩摩国薩万郡内串木野村領主平忠道謹辞」とあり,薩摩氏一族が串木野三郎忠道の支配下に移っていることがわかる。応安6年3月の島津伊久の「薩摩国串木野村内冠岳東谷西岳別当職補任状」があり,応永12年8月21日島津忠朝の「冠岳山三所権現立願のこと」の文書からみて,この頃総州家島津氏がこの地を支配していたことがわかる。「上井覚兼日記」天正2年12月19日条によれば,「自冠岳,先日佗被成候,川内へ御座候岳領知行有度由候也」とあって,川内地方になお従前からの冠岳領があったことを物語っている。現在,寺は廃され,神社だけが残っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461784
最終更新日:2009-03-01