清藤村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。薩摩国日置【ひおき】郡伊集院郷のうち。村高は天明8年で583石余(由緒再撰調),「天保郷帳」では662石余,「旧高旧領」では599石余。村の中央にある鎮守社の春日神社は猪鹿倉荘厳寺の浮免地にあったという(伊集院由緒記)。村内に大内田と呼ばれる地域があり,かつて大内田村という小村で2世帯ほどが住んでいたが禿村となったと伝える(伊集院由緒記)。「県地誌」によると戸数117,うち士族28・平民88・社1,人口541,うち士族139・平民402,商を業とする者1戸のほか皆農業で,牛26・馬77,米314石余・糯米38石余・裸麦330石余・小麦320石余・甘藷6万9,060斤・蕎麦38石を産す。また公立小学校が村の中央にあって生徒数男子35。この学校は後に清藤簡易小学校となる。出水街道とも称し,国道3等に属す九州街道が村の南より西に通じ,猪鹿倉村境に至る。この間,長さおよそ20町・幅5間。明治22年,中伊集院村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461841
最終更新日:2009-03-01