ケータイ辞書JLogosロゴ 串木野郷(近世)


鹿児島県>串木野市

 江戸期〜明治22年の郷名。薩摩国日置【ひおき】郡のうち。鹿児島藩直轄領。外城の1つ。地頭は,宮之原左近将監・仁礼蔵人・川上頼母・矢野勇夫。上名・下名・荒川・羽島の4か村からなる。ただし羽島村は薩摩郡のうち。北東一帯は八重山山塊で,羽島の弁財天,冠岳の西岳,上名の火立丘などがあり,この地一帯は,金を埋蔵している。約20kmにわたる海岸には,3浦(本浦・島平浦・羽島浦)が発達し,「三国名勝図会」には,「当邑漁戸甚衆して,人口3,500余あり,本藩漁戸の最なり,故に魚も種類甚多し」とある。当郷の政庁は上名麓にあったが,元和元年の一国一城の武家諸法度により,城は廃せられ,その跡に地頭所が置かれた。串木野城と相対する浜が城の間を旧街道(出水【いずみ】筋)が北上する。麓はその要衝にあたり,ここから金山峠の嶮を越え,隈之城・薩摩国府を経て出水に至る。藩の直轄地になると,郷士の大部分は串木野村上名麓と下名浜方面に集まり住んだ。郷の運営は郷士役(郷士年寄・組頭・横目)の合議でなされ,郷士年寄は長老株(長・入来・長谷場・宮之原・児玉)の5家で,五摂家と呼ばれ輪番制であった。農地はいくつかの門(屋敷)に分けられ,門は3〜4軒から10軒内外の名子から構成され,名頭【みようず】が名主・庄屋の間にあって世話をした。当郷は12門・207屋敷,うち串木野村12門・159屋敷,荒川村15屋敷,羽島村33屋敷,各門には,寺社のほかに阿弥陀堂・観音堂・地蔵堂・虚空蔵堂・薬師堂・毘沙門堂等々の門付堂があり,農民の心の絆となった。浜浦には浦役・弁指・小触が置かれ,特に唐船・密貿易に備えて通事を置いた。慶長4年の高4,695石余(旧記雑録)。元禄12年の高5,208石余(他郷界縄引帳)。「天明2年改薩州石高帳」では高5,791石余。天明6年の人数1万1,016。寛政4年の高7,466石余(串木野由来記)。「薩藩政要録」では,地頭有馬糺,郷士惣人数709,郷士人体301,所惣高8,224石余,郷士高2,176石余,寺高44石余,用夫2,496,浦用夫1,570。「要用集」では,地頭竪山武兵衛,郷士総人数712,郷士人体325,所総高8,247石余,郷士高2,355石余,寺高44石余,用夫2,399・浦用夫2,101。「地理纂考」では8,247石余,戸数3,320・人数1万5,906。天明の大飢饉に際し,藩庁からの奨励で地頭川上頼母・矢野勇夫らの指揮のもとに,郷士・農民が仕明により,その持留地(抱地)を拡張した(竹下家文書)。五反田川の南側の汐入潟は塩田で,塩1俵籾1俵ともいわれ,樋脇・山崎・入来【いりき】・祁答院【けどういん】方面の米と塩との交換がなされた。3浦を中心とした地域の舟は,ほとんどが漁船であった。元禄・宝永年間ごろ串木野沖(甑島周辺)のイワシは,薩摩干イワシと称し,大坂市場で珍重され,ナマコは煎ナマコとして中国へ輸出された。また天保年間頃羽島のカツオは薩摩節と称し,土佐節とともに大坂市場で有名であった(串木野郷土史)。芹が野・芹場などの金山があり,芹が野金山の創始は万治3年で島津家で採掘した(芹が野金山発起始終覚書)。その後盛衰があり,3度目の採掘を始めたのは,明治2年,同39年に至り,経営は島津家から三井鉱業株式会社に移った。宝永3年から正徳5年までに玉金70貫匁程とある(芹が野金山玉金本払帳)。明治4年鹿児島県に所属。明治2年江戸初期以来の郷士制度による郷士3役を廃し,常備隊を置いて軍政をしき,同5年常備隊を解き戸長制度となった。同12年下名村の一部が串木野町,同14年上名村の一部が冠岳村となる。明治17年の戸長役場規程により,平均5か町村に1戸長役場を置くこととなり,同18年9月薩摩郡管轄の羽島村を除く上名ほか4か町村の官選戸長に池田正義が任じられ,戸長役場を上名村鳥井が原に置いた。明治5年市来【いちき】郡治所,同12年日置郡日置郡役所,同14年鹿児島郡鹿児島郡役所,同20年には日置郡日置郡役所の管轄下となる。同22年当郷1町5か村は串木野村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461869
最終更新日:2009-03-01




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