桑羽田(中世)
鎌倉期から見える地名。薩摩国伊集院のうち。桑波田・桑幡などとも書く。建久8年の薩摩国図田帳に,伊集院のうちとして「桑羽田五町 万得」とある。また,鎌倉末期と推定される伊集院分造宇佐宮用途支配注文には「桑波田 参拾参疋 米柒斗弐合伍夕」と見える(島津家文書3/大日古)。嘉元2年3月2日の紀景氏譲状によれば「伊集院桑波田郷」の「てんはく(田畠)山野かくら(狩倉)」が景氏から子息桑波田四郎三郎に譲与され,紀姓桑波田氏が当地の領主であったことが知られる(同前)。「古城主来由紀」には,島津忠久の頃伊集院郡司であった紀四郎時清の三男が桑波田阿闍梨源智と称し,その嫡男万楊房が日置南郷の桑波田氏の祖であるという。南北朝期には桑波田氏は南朝方であったらしく,興国3年,征西将軍宮懐良親王が谷山城(鹿児島市下福元町付近)に入った際,伺候した武士の中に桑波田掃部允宗景がおり(県史),また同年と推定される6月吉日付の御感綸旨所望輩注文に「属島津道忍(伊集院忠国)手一族以下輩」として「桑波田八郎宗考」が見えている(師久公御譜/旧記雑録)。南北朝内乱を経て当地は島津伊集院氏の手に帰したが,戦国期の宝徳2年,伊集院煕久が追却されると,島津本家の直轄地となった。永正11年12月15日付の伊集院諏訪祭礼番帳には「二番……桑畑名」と見え,島津本家支配下で当地は伊集院麓の諏訪神社(南方神社)の祭礼を負担せしめられている(伊集院由緒記/県史料拾遺)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461955
最終更新日:2009-03-01