下名村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。薩摩国日置【ひおき】郡串木野郷のうち。「三国名勝図会」では串木野村下名と見え,村高は「旧高旧領」3,102石余。慶長3年島津義弘が朝鮮出兵から帰国した折,朝鮮陶工70余のうち安・鄭・李ら18姓43名は当地に上陸し,以後5年間この地で陶業に従事して当地を薩摩焼発祥の地とした。のちに彼らは苗代川に移住していった。寺院は曹洞宗松山寺・正福寺と盲僧寺の西海山永福寺。永福寺は,嘉永4年の浜浦の大火(フッキョンドンの火事)によって類焼し,以後再建されることはなかった。神社には,孝霊天皇・源為朝を祭神とする八房神社,大気津比売命・天宇須売命・猿田彦命を祭神とする稲荷神社,彦火々出見命を祭神とし,春祭ガウンガウン祭りを伝える深田神社がある。明治12年浜ノ町・下り町の浦町的性格の強かった区域を串木野町として発足させた。同18年上名村ほか4か町村の官選戸長に池田正義が任命され上名村に戸長役場が置かれた。明治初期の郷士数は122戸・271人。「県地誌」によると,戸数1,019(士族92・平民921・社6),人口4,570(士族415・平民4,155),牛76・馬610,漁舟10,小学校が3校あり総生徒数男286・女20,神社には八房神社・稲荷神社・深田神社・霧島神社・天神社,物産は米2,652石余・麦2,550石・粟4,132石・塩5,000石余・甘藷110万250斤。同22年串木野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462307
最終更新日:2009-03-01