手打村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。薩摩国甑島郡甑島郷のうち。地頭仮屋は郷内に3か所置かれ,うち1か所が当村であった。また手打湾を挾んで遠見番所・津口番所が置かれ,村の西部に下甑野牧が置かれた。文化7年の家数419軒,うち浜之市浦219軒(九州東海辺沿海村順)。村高は「旧高旧領」によれば933石余。神社には甑島総鎮守の諏訪上下大明神社,下甑島総鎮守の八幡新田宮があり,寺院には下甑島祈願所の真言宗大性寺,同菩提所の曹洞宗常楽寺などがあった。明治初年手打学館が開設され,明治17年手打簡易科小学となり,同25年手打尋常小学校と改称した。明治22年下甑村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462698
最終更新日:2009-03-01