羽島(中世)
鎌倉期から見える地名。薩摩国薩摩郡のうち。文治3年10月25日付の伴信明娘伴三子(大蔵種明妻)からその妹(平忠友妻)への譲状に,「薩摩若松名内拾参町 但加羽島浦定」とあるのが初見(財部延時氏文書/旧記雑録)。しかし,貞応2年4月日付関東下知状には「一,羽島浦事 右,如承久二年五月日問注所勘状者,長継則令進賢手継以下証文等,所申雖似有謂,忠友旦得寿永二年紀氏祖母大蔵氏尼之譲,知行経卅余年」との一条があり,肥後住人西山氏の娘紀氏の夫相良長継と薩摩(平)忠友との間で相論が起こっていたことが知られる(末吉羽島氏文書/同前)。この相論は結局忠友の勝利に終わったらしいが,これらの文書から,羽島浦はもと伴氏,次いで大蔵氏,そして薩摩平氏へと伝領されたらしい。「羽島文書」によれば,以後,忠友―忠茂―忠重(徳夜叉丸・若松四郎)―忠永(千代寿丸)―忠兼(千世石丸・若松彦太郎)と伝えられ,忠兼の代の元亨4年に国分友貞に売却された。国分氏の所領となってからは,友貞―友重―友成―友広―友平―友康と伝えられ,友平・友康は羽島豊後守と名乗っている(旧記雑録)。室町期に入ると,当地は入来院氏の有に帰したものらしい。応永10年12月7日付の島津守久から入来院重頼への宛行状に「山門院西方之事,并薩摩郡之内荒皮,羽嶋之事,可有御忠節之由,承候之間,所置進之也」とある。また,長享元年の羽島検地日記には「万福之門,土川之門,はまた,あい木」等があげられ,これらは現在も串木野市羽島の中に小字名として残っているものが多い(入来文書)。元亀元年入来院氏・東郷氏が島津氏に降ったとき,羽島の地は島津氏に献納され,その後,慶長4年2月20日島津義弘は兄義久の娘亀寿へこの地を宛行っている。その宛行状には「くしき野村,あら川村,は嶋村」と記され,「羽島村」という呼称がすでに生じていることがわかる(島津家文書2/大日古)。なお,鎌倉期寛喜3年2月19日付の平忠友から子息忠富への譲状に「羽嶋浦 小苗代四反」とあるが(財部延時氏文書/旧記雑録),現在,串木野市羽島の字絵図に小苗代は見えず,隣接する荒川の羽島寄りの地に「苗代田」がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463034
最終更新日:2009-03-01