ケータイ辞書JLogosロゴ 安里村(近世)


沖縄県>具志頭村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方具志頭【ぐしちやん】間切のうち。「高究帳」では高頭177石余うち田128石余・畑49石余。「由来記」には,安里ザカンバル(座加武原)にできた座嘉比村が見える。しかし,「中山伝信録」「大島筆記」では安里村・座嘉比村は記されず,代わってマーガジョーにできた喜納村が見える。やがて安里村古島・喜納村と座嘉比村の一部が,整然とした道路網をもつ現在の屋敷原の集落に移動したと考えられる。その後,当地にいた座嘉比の人々は,玻名城【はなしろ】村のヘーンダカリ(南村渠)に移動したという。咸豊10年(1860)の口上覚では,安里原は山下の湿地で,もとは2,137坪余の土地から1石5斗余の石高しかなかったが,農民が田を整えた結果,出来米は17石8斗余が見込まれるとしてある(地方経済史料9)。翌11年の収穫は18石2斗あり,さらに世持川(アファガー,与座井ともいう)から幅4尺・長さ165間余の溝を通して水を引いたため,田の水がかれることがなくなったとして,農民5名が王府から褒賞された(球陽尚泰王15年条)。同年の具志頭間切御手入日記では,現頭432人,米雑穀102石余・砂糖1万1,792斤余・縄具雑物代銭1万7,499貫余(地方経済史料9)。拝所には,具志頭ノロ火の神・安里之殿があり,具志頭ノロの祭祀(由来記)。明治初年座嘉比村を編入。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年131・566(男300・女266),同36年143・584(男291・女293)うち士族15・69。明治36年の民有地総反別183町余うち田5反余・畑126町余・宅地11町余・山林15町余・原野29町余(県史20)。同41年具志頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463754
最終更新日:2009-03-01




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