ケータイ辞書JLogosロゴ 安田村(近世)


沖縄県>国頭村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭方国頭間切のうち。万暦15年(1587)2月12日付の安田里主所安堵辞令書では「あたの大や」に48束の貢納が免じられており,同日付の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書には「のろ・さとぬし・おきてかないとも,御ゆるしめされ候」とあり,ノロ・里主・掟に与えられた知行などがうかがわれる(国頭郡志)。近世期になってからは,安田夫地頭が行政を司った。「高究帳」には,あだ村と見え高頭16石余うち田12石余・畑4石余。寛文8年「琉球国郷帳」には,あた村と見える。安田村は有数の杣山地帯で,乾隆18年(1753)山奉行筆者加増の際に安田村詰山筆者は楚洲・安波・安田の3か村を所管し,港での船改めをも行った(地方経済史料9)。同治2年(1863)の杣山取締内法には,辺戸【へど】・謝敷【じやしき】・安田の3か村に1枚ずつ科銭札があり,違法を取り締った(同前)。山がちのため飯料不足も生じ,杣山内開墾を願い出て許可されたが,そこが石原や薄痩地で農耕に不適だったため,乾隆35年(1770)には替地を与えられた(同前)。安田村の海岸では海難が多く,乾隆59年には朝鮮人10人が伊部干瀬で難破している(国頭村史)。咸豊3年(1853)ペリー分遣隊の伝馬船が村内アダカに停泊,翌日出帆した(県史料前近代2)。「ペリー訪問記」では沖合いの安田ケ島をシドマス諸島(Sidmouth Islands)と記している。安波ノロの崇べ所にヨリアゲ森があり,ほかに神アシャギがあって,ウンジャミ(海神祭)・シヌグの祭りが行われる(由来記)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治14年の「上杉巡回日誌」には,安田港から安波港へ向かう船中からの風景を「山原船数艘碇泊シ,山ヲ墾シ薯圃ト為ス,猪垣山腹ニ連亘ス,又長城ノ図ヲ看ルカ如シ」と記している。同17年に県山方筆者が配され,国頭間切東海岸側の辺戸から安波までを監督した。同31年9月砂糖樽検査所を設置(県史16)。明治20年簡易小学校が設置され,同23年国頭尋常小学校分校となったが,同年独立して安田尋常小学校となった。同41年国有林野法が施行され,沖縄小林区署が設けられた際,安田保護区に指定され,森林主事が配された(国頭村史)。戸数・人口は,明治13年74・382(男216・女166),同36年105・567(男291・女276)うち士族20・100。明治36年の民有地総反別381町余うち田20町余・畑36町余・宅地3町余・山林238町余・原野82町余で,60%以上が山林である(県史20)。同41年国頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463774
最終更新日:2009-03-01




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