ケータイ辞書JLogosロゴ 新城村(近世)


沖縄県>具志頭村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方,はじめ東風平【こちんだ】間切,のち具志頭【ぐしちやん】間切のうち。「高究帳」に東風平間切新城村と見え,高頭521石余うち田314石余・畑206石余。「由来記」には具志頭間切新城村と記す。康煕39年(1700)尚貞王による鷹狩が新城村で催された(向姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。道光18年(1838)頃から,シトク原に士族が寄留し,後原屋取を形成した。咸豊11年(1861)の具志頭間切御手入日記では,現頭521人,米雑穀228石余,砂糖2万2,263斤・縄具雑物代銭2万8,136貫余(地方経済史料9)。島津へ上納する砂糖高に合わせてサトウキビが植え付けられたが,食糧生産のための耕地が不足しないように,サトウキビの作付はここでも規制されていた。新城ノロの崇べ所として,ハチヤノ嶽・オケノハナ嶽・上江洲ヒラ嶽があり,また対岸の玉城【たまぐすく】間切前川村にもハチヤノ嶽・ウケノハナノ嶽という御嶽があることから(由来記),古くは両村に交流があったらしい。また新城村には13か所もの殿などの祭場があり,間切内でも独自の祭祀園を形成していた。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年218・1,051(男546・女505),同36年275・1,410(男688・女722)うち士族54・287。明治36年の民有地総反別290町余うち田23町余・畑194町余・宅地16町余・山林16町余・原野36町余(県史20)。戸口,民有地ともに,具志頭間切第一の村であった。同41年具志頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463817
最終更新日:2009-03-01




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