伊地村(近世)
王府時代〜明治41年の村名。国頭方国頭間切のうち。「絵図郷村帳」には,いち村と見える。乾隆18年(1753)杣山は検者の所管となる(地方経済史料9)。村日記所載の明治7・14年の杣山取締証文などは,山林行政を知る重要な史料(国頭村史)。役人ははじめ与那村と両村で1人の仲宗根掟が置かれていたが(由来記),明治初年段階では伊地掟が配されている。村内に神アシャギがあるが,宇良・与那両村とともに辺土名【へんとな】ノロが祭祀する(同前)。旧暦7月亥の日のウンジャミ(海神祭)は辺土名ノロが伊地の神アシャギ,宇良の神アシャギで祭祀・神遊びをした後辺土名へ帰る。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。首里・本部【もとぶ】その他の地域から,銅山鉱夫または藍作りのために移住した者が多い。明治27年の「南嶋探験」にも「伊地村尚氏(旧国王ノ持)伊地鉱山事務所」とあり,同24年に借区許可を受け,坪数4万4,117坪・出鉱高1万5,152貫目・製銅高3,557斤であった。日露戦争の頃,トーミャー山頂に見張台が築かれた。戸数・人口は,明治13年37・187(男94・女93),同36年50・257(男139・女118)うち士族17・96。明治36年の民有地総反別130町余うち田4町余・畑95町余・宅地1町余・山林1反余・原野28町余(県史20)。同41年国頭村の字となる。
解説文を自分にメール![]()
メアド:Milana@docomo.ne.jp
(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463847
最終更新日:2009-03-01