宇嘉村(近世)
王府時代〜明治41年の村名。国頭方国頭間切のうち。「絵図郷村帳」では,おか村と見える。「由来記」に村名は見えないが,宇嘉掟がいる。住民は林業と漁業で生計をたてた。乾隆18年(1753)杣山は謝敷【じやしき】詰筆者の所管となる(地方経済史料9)。道光6年(1826)9月14日の大雨は,宇嘉村を含む国頭間切7か村に山津波を起こし,水田1万4,521坪・乾田2,272坪を突き崩した(球陽尚灝王23年条)。同治6年(1867)村民3人が那覇【なは】からの帰りに暴風に遭って遭難,異国船に助けられ,隠岐【おき】・出雲【いずも】・長崎・薩摩と転送されたのち帰国している(球陽附巻尚泰王20年条)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。戸数・人口は,明治13年39・201(男91・女110),同36年43・268(男136・女132)。明治36年の民有地総反別146町余うち田2町余・畑103町余・宅地1町余・山林23町余・原野15町余(県史20)。同41年国頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463957
最終更新日:2009-03-01