奥武村(近世)
王府時代〜明治41年の村名。島尻方玉城間切のうち。「絵図郷村帳」では,あふ島村と見える。島内には耕地が少なく,島民は多く漁業に従事し,百姓地は対岸の雄樋川河口左岸の飛地(堀川)にあった。また雍正7年(1729)田地が狭く,住民が貧しいという理由で,遠く具志頭【ぐしちやん】間切具志頭村の白水川に開田し,毎年2石5斗の米を得て村用に供した大城という人が褒賞された(球陽尚敬王17年条)。さらに乾隆35年(1770)奥武村と富里【ふさと】村・志堅原村・当山村の民地209石余の田に,富里村の仲栄真川・同村の屋武多川・当山村の赤嶺川から用水を引いたところ,同42年までの7年間水旱がなかった(球陽尚穆王26年条)。道光12年(1832)9月の大風雨の際,全琉では死者14人,人家の損壊3,293戸などの被害を出したが,奥武村でも人家7戸が流失した(球陽尚灝王29年条)。島の中央に観音堂があり,浮亀山と号し,楊柳観音を本尊としている。この観音堂は,17,8世紀に唐船が暴風にあって奥武島のミシラギ瀬に漂着し,島民の助けを得て船を修理して,無事帰国したことから,黄金の観音像を贈ってきたのに由来する。現在でも毎年9月18日に,ウクワンヌル(お観音)の例祭が催される。拝所にはこのほかに,アガリダキ(東之嶽)・イリーダキ(西之嶽)・神アシャギがある(由来記)。現在でも5,6月にウマチーの祭祀が行われ,また旧暦5月4日のハーリーと旧暦8月十五夜の綱引きが盛大に催される。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治30年代から奥武村の屋取であった堀川と志堅原村の一部で粟石の採石が始まる。戸数・人口は,明治13年96・409(男209・女200),同36年128・606(男275・女331)うち士族2・9。明治36年の民有地総反別79町余うち田3町余・畑51町余・宅地3町余・山林6町余・原野14町余(県史20)。同40年奥武村の状況を報告した新聞記事では,県の模範村として,村役員の組織・権限が整っていることや,漁獲物の分配制度・納税準備制度・酒の専売制が施行されていることを挙げている(県史16)。同41年玉城村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463997
最終更新日:2009-03-01