ケータイ辞書JLogosロゴ 奥間村(近世)


沖縄県>国頭村

 王府時代〜明治41年の村名。国頭方国頭間切のうち。「高究帳」では高頭162石余うち田150石余・畑11石余で,田の石高は間切で最大。雍正10年(1732),間切番所が浜村から奥間村に移転し(球陽尚敬王20年条),大正3年に役場が辺土名【へんとな】に移るまで,国頭間切(村)行政の中心地であった。杣山は,乾隆18年(1753)に在番構となる(地方経済史料9)。御嶽にヒヨウノ嶽があり,比地村の3つの御嶽とともに奥間ノロの崇べ所,ほかに奥間ノロ火の神・神アシャギがある(由来記)。当地に伝承される「海神祭の時の二番目のうた」に,旧暦7月のウンジャミ(海神祭)などを行う祭祀場としての奥間神アシャギが見える(クェーナ141/歌謡大成I)。集落後方の丘上に土帝君を祀り,金剛山(金剛嶺)がある。その仏堂(金剛神社)は,康煕45年(1706)の創建といわれ,同年建立の金剛山碑と無年紀の南無阿弥陀仏碑がある。咸豊9年(1859)10月,徳之島(鹿児島県)を経てイギリス船が到来,同月22日王府は通事を遣わし,事情を問い合わせている(球陽尚泰王12年条)。明治7年郵便取扱所が置かれ,奥村の奥港を通じて与論島(鹿児島県)経由の郵便物も扱った。近世末期に,首里・那覇【なは】などからの移住者が形成した屋取に,半地上原がある(国頭村史)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治15年間切で最初の国頭小学校を設立,同28年辺土名村に移転。明治24年には駐在所が置かれ,同33年には県の山方筆者が謝敷【じやしき】村から奥間村に配置換えになった。明治26年村の負債は,駐在所調で300円(南嶋探験)。同31年には国頭間切内で,辺戸・安田【あだ】両村とともに砂糖樽検査所が設置された(県史16)。戸数・人口は,明治13年169・782(男367・女415),同36年206・1,123(男529・女594)うち士族35・279。明治36年の民有地総反別332町余うち田94町余・畑116町余・宅地12町余・塩田7反余・山林6町余・原野101町余(県史20)。同41年国頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464057
最終更新日:2009-03-01




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