ケータイ辞書JLogosロゴ 嘉手納(近代)


沖縄県>嘉手納町

 明治41年〜現在の字名。はじめ北谷村,昭和23年嘉手納村,同51年からは嘉手納町の字。明治44年県立第二中学校設置,のち真和志村に移転。同45年沖縄製糖嘉手納工場操業開始。大正5年名護から県立農学校を移設し,同12年県立農林学校と改称。比謝川河口の渡具知港には,国頭【くにがみ】地方,奄美地方(鹿児島県)からの材木・薪炭類および家畜,那覇【なは】からの日用雑貨などが荷揚げされ,砂糖・農産物などが積み出された。明治末期から道路の整備が進み,大正11年には那覇との間に県営鉄道嘉手納線が開通,嘉手納は中頭郡西海岸における交通の要所となった。なお,物資の輸送は陸運が主となり,港は次第に衰退した。製糖工場の存在は,周辺の農村にサトウキビ作を進めるなど,大きな影響を与えた。大正14年の戸数401・人口1,818,農家数219,うちサトウキビ作戸数180,耕地112町余うち田3反余・畑112町余。同15年牛67頭・馬59頭・豚185頭を飼育(県史15)。周辺の地域に比べて農業以外の戸数が多い。沖縄戦で壊滅的打撃を受け,昭和20年9月7日嘉手納で沖縄戦の降伏調印式が行われた。戦後,地域の半分以上が米軍嘉手納飛行場に接収され現在に至っている。このため農業はほとんど不可能となり,基地の街となった。昭和26年頃一部が水釜となる。昭和52年の世帯2,049・人口8,390。現在,嘉手納は東・西・南・北・上・中の行政区に分かれている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464127
最終更新日:2009-03-01




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