宜名真村(近世)
王府時代の村名。国頭【くにがみ】方国頭間切のうち。「高究帳」などには見えない。「南島風土記」では康煕13年(1674)田港間切(のち大宜味【おおぎみ】間切)を設立した際,廃村となった3か村のうちに宜名真村の名が見え,宜名真村は辺戸村の一部となった。「由来記」に「辺戸村ヨリ半里行程,宜名真ト云所ニ,御殿屋敷アリ。中畠壱畝余(名寄帳ニ,ギナマ原)」とある。この御殿屋敷は,金丸(のちの尚円王)が居住したもので,「由来記」編纂の頃には神アシャギのようになっていたという。御殿屋敷跡は,公祭ではないが人々の尊敬を集めていたため,乾隆46年(1781)宜名真殿が建てられた(球陽尚穆王30年条)。金丸の屋敷の近くに,住民の襲撃を金丸に知らせた泊大比屋の屋敷があった(球陽尚円王条附)。同治13年(1874)イギリス商船が難破,生残りの乗員5人が海岸に漂着,溺死者を埋葬するためにオランダ墓が建てられた(国頭郡志)。住民は,首里・那覇【なは】などから移住してきた士族が多く,明治12年の廃藩置県以前の移住者もいるが,ほとんどは置県時の移住者(国頭村史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464201
最終更新日:2009-03-01