ケータイ辞書JLogosロゴ 具志頭村(近世)


沖縄県>具志頭村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方具志頭間切のうち。「高究帳」では具志上村と見え,高頭283石余うち田84石余・畑199石余。「絵図郷村帳」に見える,やふそ村は「由来記」に見えず,その頃までに具志頭村古島のナカマンダカリ(仲間村渠)に移り,「よりたち村」も同じ頃具志頭村のアガリンダカリ(東村渠)に移ったと伝える。さらに村域は,ナカンダカリ(仲村渠)・メーンダカリ(前村渠)と拡大していく。ダカリ(村渠)は組ともいう。上港川屋取は,道光14年(1834)頃兼城【かねぐすく】間切糸満【いとまん】村の幸地腹門中長嶺家の分家上原加那が,具志頭村カテーラガー(川平良井)付近に仮小屋を設けて漁業に従事したのが始まり。咸豊2年(1852)玉城【たまぐすく】間切前川村から三司官謝名鄭の子孫宇地原家が移住して長毛屋取(または上屋取)と称した。同3年大里間切から殷氏宇座家がトーガマ原に移住してトーガマ屋取(または下屋取)を形成した。さらに,同治5年(1866)には首里から真栄田一門がトーガマ原の唐の船御嶽付近に移住して唐の船屋取(または真栄田屋取)と称した。唐の船御嶽は,昔,中国の貿易船が難破し,乗組員が本国帰還を祈った霊石の跡といわれる。咸豊11年の具志頭間切御手入日記では,現頭538人,米雑穀151石余・砂糖1万7,499斤余・縄具雑物代銭3万2,941貫余とある(地方経済史料9)。具志頭村の祭祀のうち屋富祖之殿・具志頭城之殿・真嘉之殿は具志頭ノロ,城内之嶽・屋富祖ギシノ嶽・下嶽は具志頭・中座両ノロが管掌した(由来記)。具志頭ノロは安里村・仲座村・玻名城村・与座村の祭祀も司った(同前)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同36年港川村を分村。戸数・人口は,明治13年168・669(男348・女321),同36年174・842(男426・女416)うち士族42・228。明治36年の民有地総反別229町余うち田27町余・畑151町余・宅地10町余・山林9町余・原野29町余(県史20)。同41年具志頭村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464267
最終更新日:2009-03-01




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