ケータイ辞書JLogosロゴ 国頭間切(近世)


沖縄県>国頭村

 王府時代〜明治41年の間切名。国頭方のうち。国頭郡・国頭県とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では渡野喜屋・田港・前田・屋古・塩屋・根路銘【ねろめ】・饒波【ぬうは】・喜如嘉【きじよか】・根謝銘【ねじやめ】・城【ぐすく】・浜・屋嘉比・比地・奥間・辺土名【へんとな】・宇良・伊地・与那・謝敷【じやしき】・佐手・辺野喜【べのき】・宇嘉・辺戸【へど】・奥・安田【あだ】・安波【あは】・いたばか・とへさ・きにやま・そせの30か村が見える。「高究帳」では合高1,029石余うち田860石余・畑169石余。康煕12年(1673)渡野喜屋ほか10か村が田港間切のうちとなる(球陽尚貞王5年条)。同34年大宜味【おおぎみ】間切との間で境界変更があり(球陽尚敬王7年条),また村の廃合もあった。「由来記」では浜・屋嘉比・比地・奥間・辺土名・宇良・伊地・与那・謝敷・佐手・辺野喜・辺戸・奥・安田・安波・親田・見里の17か村が見え,宇嘉村が見えないが村は続いていた。康煕58年屋嘉比・親田・見里の3か村が大宜味間切のうちになり(球陽尚敬王7年条),乾隆元年(1736)には楚洲村が新設され(球陽尚敬王24年条),16か村をもって近代に至る。なお,「中山伝信録」には国頭村が見えるが,その後の史料にはない。間切番所は,はじめ城村にあったが,同村の大宜味間切編入後は浜村に移し(国頭村史),雍正10年(1732)以降は奥間村に置かれた(球陽尚敬王20年条)。同13年山林の盗伐・密売の取締りと港での船改めをするため,辺野喜・奥・安波の3か村に津口勤番の詰所が置かれた(球陽尚敬王23年条・地方経済史料9)。乾隆18年(1753)津口勤番が廃され,その役職は間切の西南4か村(桃原【とうばる】を含む)を在番,その北の3か村を検者,西側中央5か村を謝敷詰筆者,北部2か村を辺戸詰筆者,東部3か村を安田詰山筆者が管轄するものとした(地方経済史料9)。このような山林保護策を施行したが,道光6年(1826)には大雨による山津波によって,中央部7か村の水田1万4,521坪・乾田2,272坪が被害を被った(球陽尚灝王23年条)。「由来記」には御嶽・森などが19,神アシャギ15,ノロ火の神7などがあり,7人のノロが2か村から4か村の祭祀を管掌した。「由来記」の年中祭祀では,西海岸の村々はウンジャミ(海神祭)だけだが,東海岸の辺戸・奥・安田・安波ではウンジャミとシヌグが行われている。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。屋取は,西海岸赤丸岬周辺の半地上原に形成された。明治17年山林監視のため,東海岸の5か村には安田山方筆者,西海岸の11か村には謝敷山方筆者を置いた(国頭村史)。戸数・人口は,明治13年1,148・5,719(男2,894・女2,825),同36年1,535・8,432(男4,201・女4,231)うち士族349・2,216。明治36年の民有地総反別3,405町余うち田288町余・畑2,149町余・宅地61町余・塩田1町余・山林520町余・原野381町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の国頭村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464282
最終更新日:2009-03-01




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