ケータイ辞書JLogosロゴ 志堅原村(近世)


沖縄県>玉城村

 王府時代〜明治41年の村名。島尻方玉城間切のうち。「絵図郷村帳」では,志けんはる村と見える。乾隆8年(1743)夏4月22日,当地の住人が知武原に牛を連れて行ったところ,太陽が2つ出ているのを目撃したという奇異譚がある(球陽尚敬王31年条)。同35年志堅原・富里【ふさと】・当山・奥武4か村の百姓地209石余の田に,富里村の仲栄真川・同村の屋武多川・当山村の赤嶺川から用水を引いたところ,同42年までの7年間水旱がなかった(球陽尚穆王26年条)。嘉慶21年(1816)には,地頭代仲井真親雲上・夫地頭嶺井親雲上らが私財を投じて,泉を掘り溝をうがち水道を通し,屋嘉部村・当山村の39石余の天水田に水を入れ,さらに志堅原村・富里村の100余石の水田に水を引いた上,4,045坪の湿地を水田に変えて褒賞された(球陽尚灝王13年条)。拝所には,ヅン川之御イビ・ミシラゲ瀬・イヌリノ嶽・志堅原里主之殿・ナカウ地タイマ地之殿があり,当山ノロの管掌(由来記)。ヅン川之御イビ・ミシラゲ瀬では,王府から大勢頭部が派遣されて正月の祈願が行われ,イヌリノ嶽はイヌイヤマ(祈り山)とも呼ぶセジ高い御嶽であった。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治30年代具志頭間切とほぼ同時期に,奥武村で粟石の採石が始まったが,志堅原村内読山原【ゆんざんばる】は埋蔵量が多く,読山石の名で沖縄本島各地に移出された。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は,明治13年68・300(男141・女159),同36年74・324(男152・女172)うち士族5・33。明治36年の民有地総反別82町余うち田6町余・畑50町余・宅地2町余・山林1町余・原野20町余(県史20)。同41年玉城村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464432
最終更新日:2009-03-01




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