玉城間切(近世)
王府時代〜明治41年の間切名。島尻方のうち。玉城郡・玉城県とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では目取真・大城【おおしろ】・稲福・富名腰・糸数・当山・玉城・和名・百名・奥武【おう】・志堅原・中やま・あたん口・嶺・下百名の15か村が見える。「高究帳」では合高1,369石余うち田1,020石余・畑348石余。その後,大里間切との間の間切の再編や,村の改称・廃合・新設などがあった。「由来記」では富名腰・糸数・当山・玉城・和名・百名・奥武・志堅原・垣花・仲村渠【なかんだかり】・富里【ふさと】・前川・屋嘉部の13か村が見える。その後,和名村が垣花村の一部となり,仲間村・仲栄真村が新設されて,14か村をもって明治期に至る。按司地頭は,尚清王(1527〜55在位)六男東風平王子の玉城御殿。総地頭は,天啓2年(1622)から乾隆年間(1736〜95)のはじめまで向姓辺土名家から任命されたが,康煕31年(1692)から雍正12年(1734)までは組踊の創始者として有名な10世玉城朝薫が総地頭職にあった(向姓小宗家譜/那覇市史資料1‐7)。間切番所は,はじめ玉城城内に置かれたが,のち富里村に移した。康煕12年まで行われた国王の東方親拝の際,間切番所が国王以下の宿舎にあてられた。御嶽・森は雨粒天次をはじめ24あり,ほかにイビ11,ノロ火の神7,殿38などがあり,7人のノロが管掌した(由来記)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。明治初年仲間村を富里村に編入。屋取に愛地・喜良原【きらばる】・新原・親慶原【おやけばる】などがあった。明治36年富名腰・糸数・当山・玉城・百名・奥武・志堅原・垣花・仲村渠・富里・前川・屋嘉部・仲栄真【なかえま】の13か村となる。戸数・人口は,明治13年1,200・5,242(男2,706・女2,536),同36年1,445・6,491(男3,191・女3,300)うち士族366・1,890。明治36年の民有地総反別1,544町余うち田158町余・畑843町余・宅地66町余・山林138町余・原野325町余・雑種地10町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の玉城村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464597
最終更新日:2009-03-01