ケータイ辞書JLogosロゴ 野国村(近世)


沖縄県>嘉手納町

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方北谷【ちやたん】間切のうち。「高究帳」では高頭は畑のみで679石余。康煕34年(1695)野国村と北谷村・玉代勢村は,耕地の新開による名寄帳高の訂正のために再検地を受けたが(地方経済史料10),再検地の結果は不明。雍正13年(1735)の重出米の高は,野国里主所畑方41石余・野国ノロクモイ同14石余・野国掟同8石余・百姓持同44石余で,合高109石余になっている(同前)。野国総官が,万暦33年(1605)中国から蕃薯を持ち帰り野国村・野里村・砂辺村に広め,のち儀間真常がこれを沖縄本島全域に奨励した(由来記)。現在,野国総官の墓(県史跡)は兼久にあり,墓地に康煕50年(1711)建立の阿弥陀・地蔵・観世音の名号を刻んだ野国総官墓供養碑がたつ(県文化財調査報告書69)。野国総官宮が嘉手納【かでな】にある。野国・野里・砂辺の村民は,毎年2・3月中の吉日を選び,野国総官の墓を祀って豊作を祈願した(球陽尚寧王17年条)。拝所は,大嶽・大城ゲライ森・御蔵オロシ森・野国ノロ火の神・野国之殿・大城嶽前之殿があり,いずれも野国ノロの管掌だが(由来記),のち野国ノロは廃され,野里ノロの管掌となる。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。北谷間切は県下でも士族人口比率が高い地域だが,野国村は明治36年総戸口中の士族人口比率は79%に達し,屋取に千原・兼久・野国ノ後がある(沖縄の集落研究)。明治6年,野国親雲上の地頭地作得は17石余(県史14)。同13年の野国ノロクモイは作得表高雑穀9石余・現収高雑穀5石余(県史12)。同25年野国尋常小学校が設立されたが,同35年廃校となった。戸数・人口は,明治13年156・772(男386・女386),同36年177・937(男456・女481)うち士族121・741。明治36年の民有地総反別162町余うち畑137町余・宅地10町余・山林6町余・原野8町余(県史20)。同41年北谷村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7464888
最終更新日:2009-03-01




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