ケータイ辞書JLogosロゴ 屋良村(近世)


沖縄県>嘉手納町

 王府時代〜明治41年の村名。中頭【なかがみ】方北谷【ちやたん】間切のうち。「高究帳」では高頭384石余うち田65石余・畑319石余。雍正13年(1735)重出米のうち粟での上納高6石余(地方経済史料10)。村のヤラムルチ(屋良無漏渓)は県下最大の池とされ,宝渓とも呼ばれ,「南嶋探験」によれば長さ150間・幅80間・深さ10数尋という。この池には義本王代の中国宋代淳祐年間(1241〜52)に大蛇が出現したという伝説があり(中山伝信録),玉城朝薫の組踊「孝行之巻」にもとりあげられている。屋良村後方には屋良泉(俗に轟樋川),さらに毎年6月から8月の間に屋良の人々が遊んだという轟渓がある(旧記)。拝所には,屋良城之嶽・ムロキノ嶽・屋良之殿があり,野里ノロの管掌(由来記)。屋良城の下にノロ墓がある。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。北谷間切の村々には屋取が多いが,屋良村域にも久得・屋宜・野理原・千貫・屋良ノ前・伊金堂の屋取があった(沖縄の集落研究)。同35年に分教場が置かれ,同40年に独立校となった。戸数・人口は,明治13年255・1,129(男608・女521),同36年338・1,607(男799・女808)うち士族192・739。明治36年の民有地総反別563町余うち田23町余・畑269町余・宅地17町余・山林251町余・原野1町余(県史20)。同41年北谷村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7465222
最終更新日:2009-03-01




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