ケータイ辞書JLogosロゴ 須佐郷(中世)


島根県>佐田町

 鎌倉期からみえる郷名。文永8年の「杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番事」によれば,当郷の面積は30町3段小で,地頭は相撲衆であったが,この相撲衆は相摸殿の誤記であるとされている(千家文書/新県史史料編1・鎌遺10922)。もしこのことが事実なら,相摸殿は北条氏であろう。宝治2年10月27日の杵築大社遷宮にあたって,流鏑馬15番の第15番目に,多禰【たね】郷・恒松【つねまつ】保とともに当郷もこれを勤仕し,また相撲10番のうちにも,相撲1人を進上している(千家文書・北島文書/新県史史料編1・出雲国造家文書)。この須佐郷は,須佐神社の鎮座する宮内地区を中心にした地域で,古代の須佐郷とほぼ一致していたと思われる。南北朝期には,建武4年足利尊氏は須佐郷地頭職を石清水八幡宮に寄進したが(石清水文書/大日古),これは北条氏領としての当郷が闕所地となったからであろう。貞和3年,当郷が八幡宮領と称して杵築大社三月会の頭役を勤仕しないことを幕府は責めている(千家文書/新県史史料編1)。中世後期には,飯石郡波多【はた】村(古代の波多郷の一部)も須佐郷内に編入されたらしく,「鰐淵寺旧蔵大般若経」(常光寺蔵/鰐淵寺文書の研究)のうち,永和2年2月13日に写了された第171巻の奥書に,「於須佐郷波多村本覚寺」とみえている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7617496
最終更新日:2009-03-01




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