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![]() | 細島[九州地方] |
米ノ山の北麓に位置し,北側には入江の深い天然の良港があり,東部は日向灘に面している。岬の先端にある馬ケ背柱状岩壁は絶景。牧島山の東南の一部も含む。地名の由来は鉾島から転訛したと伝えられ,これについては神武天皇に関わる伝説がある。すなわち,美々津を出港した神武天皇が細島の沖にさしかかった時,漁夫たちが急いで釣りをやめて小舟を引き返して帰ろうとしていたので,天皇は不思議に思ってその理由を聞くと,「いつも昼頃になると大きな魚が現れて舟をくつがえしますので恐ろしくて帰るのです」と漁夫がいう。それで天皇が「私が大魚が来ないようにしてやろう。この鉾をここに建てて祀るがよい」といわれたので漁夫がそれを祀ったのが鉾島神社であり,それよりこの地を鉾島と呼び,後世この鉾の字が細になって細島というようになったというのである(日向の伝説)。ただし,鉾島神社は応永年間の創建で,はじめ八幡神社と称し,弘安2年創建の愛宕神社と応永2年再興の大御神社を大正10年に合祀して現社名に改称(県史蹟調査)。細島港を見下ろす鉾島神社後方約500mの山腹に円墳1基があり,細島古墳として昭和9年県史跡に指定された。明治40年の発掘では石槨内から勾玉・金環・土器などが発見されたとの記録がある。本要寺の境内には日蓮宗の名僧日要の墓があり,昭和14年県史跡に指定されている。日要は当地に生まれ,幼い頃から当地の妙国寺で修行していたが,九州での布教のため同寺を訪れた本山妙本寺の学頭日朝の目にとまり,弟子となった。そして,長享元年には師日朝の後を継いで学頭となり,2年後の延徳元年には本山の11世となった。晩年には当地に帰り,本要寺を開山して同寺にいたが,永正11年11月16日79歳で没した。墓は縦長の自然石で,中央に「南無妙法蓮華経」,右側に「要文」,左側に「十一月十六日」と刻まれている。日要が修行した妙国寺は康永年間の開山と伝え,興福山と号し,通称やくよけ寺ともいわれる。境内には深山の趣を呈する美しい庭園があり,尾鈴山石英斑岩の露頭を基盤とし,自然の地形を極力利用して築庭され,本堂東側の北から南にかけて山(岩盤)―池―中島―池―築山―素地―築地塀という構成からなる。具体的な作庭年代は不詳だが,手法などから南北朝期のものと推定され,県内最古の庭園で,昭和8年国名勝に指定された。細島港には,壇ノ浦から逃れた安徳天皇一行が上陸し滞在したという伝説,平家残党を討つために工藤祐経・那須与市らが上陸したという伝説,那須与市の弟那須大八郎宗高が平家残党追討のために上陸し椎葉(しいば)へ進んだという話などがあり,古くから天然の良港として発達。室町期は日明貿易の中心港として栄えた薩摩の坊之津に至る航路上に位置し,中継貿易港としてにぎわった。昭和8年に洪武通宝がおよそ3貫目発掘されている。また,倭寇もしばしば,港を利用したといわれる。天文14・15年頃より南蛮貿易港としてポルトガル船の入港もあり,「ウスキ」の港として知られた(日向市の歴史・日向市調書)。
【細島(中世)】 戦国期に見える地名。
【細島町(近世)】 江戸期〜明治22年の町名。
【細島町(近代)】 明治22年〜昭和12年の東臼杵郡の自治体名。
【細島(近代)】 明治22年〜現在の大字名。
