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![]() | 西方?[中国地方] |
高梁(たかはし)川中流右岸に位置し,大部分が山間地。地名の由来は,中世新見荘が文永8年に全面検注を受け,これを土台として領家小槻氏と地頭新見氏との間で下地中分が行われ,領家方を西方と称したことにちなむ。同10年11月日の新見荘西方作田目録案および同荘西方作畠目録案からこの呼称が使用されており(東寺百合文書ヒ),この頃までには下地中分が完了していた。これらの目録案によると,西方(領家方)は作田61町8反20代30歩うち定田22町3反5代31歩,作畠196町1反10代23歩うち定畠121町4反23歩で,そのほかに吉野村の一部を含んだ。西方(領家方)と東方(地頭方)とは地域的には西と東に分かれていたが,両者の境界は判然としておらず,中分時点で新見荘里村の地域は領家方一円所領が多かった。しかし,文永8年2月28日の同荘領家方奥村分正検田帳案(東寺百合文書ク)では,現在の神郷町高瀬付近と推定される本郷の箇所の部分にのちに張られた押紙に「東方」「西方」の両方があり,同じ付近と推定される木谷に「東方」,伊守忠に「東方」「西方」の押紙があり,これらの地域では下地中分により領家方・地頭方の両方が入り組んでいたことが分かる。また,同年月日の同荘領家方里村分正検田取帳案(同前)では楢原(現西方)の箇所に「東方へ行,永仁二年七月廿九日」という押紙があり,中分以後も地頭の押領などにより東方(地頭方)となるところもあったことが知られる。地内善成寺には市重文に指定されている木造阿弥陀如来座像がある。また,土居に古墳群がある。
【西方村(近世)】 江戸期の村名。
【西方村(近代)】 明治7〜22年の村名。
【西方(近代)】 明治22年〜現在の大字名。
