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![]() | 来間[沖縄] |
方言ではフィマズマ(来間島)という。池間の歌謡では,「ふりま」「っふいま」,狩俣では「っふんむら」などと謡われる。宮古島の南西約1.5kmの狭い水道を隔てて位置する来間島全島を占める。五穀豊穣・子孫繁栄を祈願して旧暦8・9月に行われるヤーマスプナカの由来譚に,島立ての説話が語られる。それによれば,ある女性が太陽の光で懐胎して3人の男児を生んだ。当時来間島は,祭祀を怠ったため住民は赤牛にさらわれ,無人島になっていた。3人は来間島に住み着き,赤牛を倒し,海底の城へ行って神に会い,今後は祭祀を怠らないと約束し,そこにただ1人残っていた島の娘を連れて帰り,それ以後島は栄えたという。「来間島やーますぶなかのにーり」によれば,ヤーマスプナカを始めた家は中大家であるという(ニーリ3/歌謡大成?)。「宮古嶋記事仕次」には,宮古地方の争乱が続いた時代に,川満村の「くちやけ」「てたまつ」という兄妹が難を逃れて無人の来間島に渡って夫婦となり,以後子孫が繁栄したという(平良市史3)。来間川周辺およびその崖上一帯には,14〜16世紀の遺跡である来間遺跡が形成されている。集落南方には県史跡のスムリャーミャーカがあり,頭骨などの人骨に混じって染付けなどの副葬品もあった。島にはほかにも幾つかのミャーカが散在する。赤豆の豊作を祈願するために各地の神々の名を崇べていく「東山の祓い声」の中に,当地の集落名と思われるンミャオ原が見えるが,比定地未詳(ピャーシ10/歌謡大成?)。
【来間村(近世)】 王府時代〜明治41年の村名。
【来間(近代)】 明治41年〜現在の字名。
