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溝口(中世)[福岡県]
角川日本地名大辞典(旧地名編)

 南北朝期から見える地名。筑後国下妻郡のうち。康永2年7月日の田原正堅軍忠状(入江文書/南北朝遺1950)によると,正堅は同年5月6日幕府方の沙弥某に従って筑後川を渡り南朝方の城郭を焼き,次いで同8日溝口禅院城を攻め落城させている。この頃九州探題一色範氏が中院侍従義定や菊池武茂らが籠る竹井城(山本郡)を攻めているので,それに関連する軍事行動であろう。正平6年征西将軍懐良親王の軍は肥後菊池を発し筑後に進出するが,同年10月18日の三池頼親軍忠状によれば,頼親は溝口城に供奉している(三池文書/同前3218)。天文19年4月3日溝口・西牟田・三池氏らは大友氏に属する田尻親種を攻めた。田尻氏は蒲池氏と協力,逆襲して19日溝口丹後守要害を攻め,相談に来ていた西牟田軍を伏兵をもって討つなどの戦果をあげた。5月26日大友義鎮は田尻親種に溝口鑑資跡のうち長田・三溝などの地を恩賞として与えた(以上,田尻文書/佐賀県史料集成7)。溝口鑑資の拠る溝口要害は,同年閏5月19日の菊池義武書状によれば,閏5月18日落城している(相良家文書/大日古5-1)。天正15年11月28日,立花統虎は矢賀部大和守に「溝口庄新庄村」のうち2町6反余を庄屋給として与えている(矢賀部文書/県史1-下)。なお,文禄4年の筑後国知行方目録に「〈溝口ノ内〉小田村」「〈溝口ノ内〉本村」が見え,それぞれ705石1斗3升,856石4升とある(立花文書/県史資料4)。天正6年3月書写の筑後国領主付に溝口常陸介居城を小田城とすることからみると(大友史料24),戦国末期溝口村は矢部川北岸の本村と南岸の小田村とで構成されていたものと思われる。