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![]() | 奥白方[四国地方] |
丸亀平野の西端に位置する。東を弘田川が流れ,西南は黒戸山・弥谷山・天霧山が連なる。東方平地上の東白方・西白方に対応する。地内には高さ6m・基底直径36mの円墳,盛土山古墳がある。出土品に長さ2m・幅80cmの箱式石棺があったといい,副葬品の勾玉2・小玉60・四神四獣鏡1・丸玉1・銅鈴1・刀身残片1・管玉57は東京国立博物館に収納された。鏡は銅製で腐食が激しく銘帯に方形四字銘があるが不明。翡翠の勾玉は丁字頭の3線がわずかに見え,その長さ6.6cmという珍品で,仁徳陵出土のものより大きく日本一の勾玉である。丸玉はトンボ玉といわれるガラス製丸玉の一種で,紺青色の地に黄色緑色などの斑文を表しトンボ玉の代表的なものである。また球体に一文字の一孔を穿った銅製鈴など,この古墳の主は海の経路によって流行の最先端の品々を手に入れたのであろう。このほか,北方の海に向かって2基の平地古墳が残っている。すでに開墾によって破壊されているが1つは長さ55m・幅前方部50mに及ぶこの地方には珍しい帆立貝式古墳の原型を残し,周縁には埴輪円筒をめぐらしている。水軍(多度軍団)との関係を示すものとも考えられる。大化改新後,新しく軍団の制度がしかれ,讃岐国には山田(屋島)・阿野(城山)・多度(白方)の3軍団が置かれたという。多度軍団は白方に置かれたが,その要城は天霧山で烽火台は火上山と伝える。天霧山の山嶺は八国(弥谷)山,黒戸山と屏風を立てたような連峰をなし,黒戸山は北方海岸近く横たわる白方山・多度津山の丘陵に連なり,あたかも奥白方の台地を腕の中へかかえこむような馬蹄状を成している。白方山頂から少し下った尾根,標高90mの所に黒藤山古墳がある。全長30m・後円部の径12m・高さ5mで,昭和27年発掘され人骨・刀剣・土器など多数出土した。天霧山の天然の要塞は中世になって香川氏の居城となった。今でも山上の所々に石垣・土塁・井戸・空堀などが当時をしのばせる。
【奥白方村(近世)】 江戸期〜明治23年の村名。
【奥白方(近代)】 明治23年〜現在の大字名。
