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徳川綱吉
【とくがわつなよし】


死後一〇日目に廃止された「生類憐みの令」

江戸時代およそ三〇〇年を通じて最悪の法令といわれているのが、「生類憐みの令」である。五代将軍綱吉によって出されたもので、その取り締まり実態関しては、様々な事例伝えられている。馬のたてがみを切っただけで罪に問われた、蚊を殺し小姓主君手打ちにされたなど、真贋はともかく、巷間話題にはことかかない。ただ、綱吉真意は、生き物への慈悲心が育てば世が平らかになるという精神を育成するところにあったのだという説も根強い取り締まり担当する下級役人真意理解できず、違反逮捕に走った結果だというのだ。しかし、世継ぎ夭折させてから男子に恵まれなかった綱吉が、子が生まれないのは前世報いであり、現世では殺生をしてはならないという、母の桂昌院自身帰依した僧侶隆光の言を信じたことは本当のようだ。そして、綱吉が戌年であったことから、とくに犬が大切にされたのである。また、綱吉男子誕生へのこだわりの背景には、将軍後継者争いがあった。そもそも綱吉自身が、後継者争いを経て将軍となっている。三代家光長男家綱第四代将軍を継いだが、家綱病弱で、子どもは早世して跡継ぎがいなかった。そこで、五代将軍の座を家光側室である桂昌院の子綱吉と、別の側室の子綱重とが争ったのだ。本来なら次男綱重に優先権があるのだが、綱重の死のおかげで綱吉五代将軍の座を手に入れた。ところが綱吉後継者がなければ、六代将軍の座は綱重の遺児綱豊のものになる。かつてのライバルの子になど譲りたくないというのが、桂昌院綱吉本音だったのだ。綱吉一人娘が嫁いだ紀州徳川の綱教に譲りたいと画策もしたが、彼が早世したためその夢も消える。そこでますます後継者願望高まる。それにつれて「犬」重視強まる。こうした江戸城内の思惑は、江戸町内にも伝わり、綱吉は「犬公方」と揶揄されるようになったのだった。しかし結局綱吉は子どもに恵まれず、綱豊が家宣と名を改めて代将軍となる。彼が将軍につくとすぐ「生類憐みの令」は廃止されたが、それは綱吉死後わずか一〇日のことだった。




東京書籍
「雑学大全2」
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