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盗み
【ぬすみ】


江戸末期でも、一〇両盗めば死刑だった!

戦国時代日本では、逆さ磔、串刺、車裂など非常に残酷な刑罰がおこなわれていた。こうした刑罰は、すべてではないにしても江戸時代引き継がれた。しかし、罪と罰関係はときに恣意的で、明確な基準がない状態続いていた。これを整理法令化したのが、八代将軍徳川吉宗である。吉宗は、過去の判例などをもとに、一七四二(寛保二)年、『公事方御定書』として集大成させたのである。ここに、幕府の刑罰体系はようやく整備された。とはいえ、死刑値する罪の基準厳しさには、やはり驚かされる。たとえば、一〇両以上金を盗む死刑になった。それも現金ばかりではない。一〇両相当のものを盗んでも同罪とされた。一両価値時代によって変遷するが、およその目安として江戸時代初期でだいたい一〇万円ぐらいだったから、一〇両は一〇〇万円ということになる。貨幣価値違い考慮するにしても、一〇両盗んで死罪というのは厳しいのではないだろうか。『公事方御定書』には、罪によって死刑方法も決められている。殺人獄門放火火罪火焙)、殺人でも主や親を殺し場合は磔である。獄門とは斬首した首を三日間さらすというもので、実際幕末に撮られた獄門写真が残っている。吉宗は、耳切、鼻そぎなどの肉刑を廃止するなど、旧来の残酷な刑を緩和ないし廃止するように努めているが、それでも現代の目から見れば残虐な刑罰が下されていた。ただ、吉宗意図は、法を整備し、刑罰基準明確にすることで、見せしめ目的とした刑罰改めることにあったという。江戸時代の刑罰制度がいいか悪いかは一概に判断しかねるが、殺人犯しても死刑直結しない現代比べると、罪人対する刑の判断基準には雲泥の差があるということがわかる。




東京書籍
「雑学大全2」
JLogosID : 14820670