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宮沢賢治
【みやざわけんじ】


妹トシ子とのただならぬ関係!?

銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』などの童話名作を残した宮沢賢治。彼は作家だけではなく、農芸科学者であり、宗教思想家でもあった。岩手宗教心の篤い裕福な家庭育つ花巻農学校教諭の職を辞して「羅須地人協会」を設立し、青年たちへの農業指導や、肥料開発取り組む一方で芸術論講義した。子どもたちのために童話読み聞かせる会を開いたりもした。農業取り組む人たちの力になりたいという思想実践でもある生活だったが、結核を病み、闘病生活の後、死去死後手帳に残されていた「雨ニモマケズ」の詩が、彼の生き方そのものを象徴している。さて、「羅須地人協会」における賢治は、ただ教壇に立っての指導ではなく、自給自足一人農民として生きながら、厳しい環境のなかで生活していた。その賢治が一人暮らし拠点にしたのは父親別荘であった。妹トシ子が女学校中退して結核療養にあたり、死を迎える直前実家戻るまでを過ごした家である。この彼女の死が、後の賢治の生き方大きな影響を与えるものだったといえる。賢治は、トシ子をこよなく愛し彼女亡くなったときは押し入れ首を突っ込んで号泣したといい、彼女の亡き骸の頭を膝にのせて髪をすいてやったという。また、彼女の死の直前に詠んだ詩「松の針」では、「けふのうちに とほくへさらうとする」妹に、「わたくしに いっしょに行けと たのんでくれ」と歌っている。こんな行動から、賢治の妹トシ子に対する感情は、兄が妹を思うものではなく、近親相姦関係にあったためではないかという説がささやかれることになる。賢治が一生独身で過ごしたのも、妹への思慕があまりに強かったからだというのだ。現実二人肉体関係にあったというのではなく、「松の針」以外作品からも、賢治の妹への感情が、ほとんど男女の恋愛感情同じものだったことが読み取れるともいう。妹と同じ病を得ての死は、賢治にとって本望だったのかもしれない。




東京書籍
「雑学大全2」
JLogosID : 14820878