100辞書・辞典一括検索

JLogos

25

雷電爲右エ門
【らいらいでんためえもん】


大名どうしの不仲が原因で、横綱になれず

古代神事としてはじまった相撲は、江戸時代になって興行として形をなすようになった。当時力士番付最高位大関であって、横綱はとくにすぐれた大関与えられる栄誉であり、江戸時代通して一〇人ほどしかいなかったという。そんな江戸時代の力士で、史上最強といわれながら横綱になれなかったのが、江戸時代後半活躍した雷電爲右エ門もんだ。当時場所数が少なかったため、二一年間で勤め場所は三五場所。しかし、二八五戦して二五四勝一〇敗、引き分け二、預かり一四、無勝負五という成績で、勝率は九割六分二厘という驚異的数字を残している。そんな雷電が四五歳で引退するまで一七年間ずっと大関のままで、ついに横綱になれなかったのには理由がある。この頃の名力士大名お抱え普通で、大名自分が面倒を見ている力士強さ誇りたがった。雷電将来嘱望され、二三歳で松江藩松平氏お抱え力士となった。八石三人扶持だったというから、足軽並みとはいえ士分であり、帯刀許されていた。松江藩松平氏は、徳川家康からつながる血筋家柄だ。興行相撲デビューすると、いきなり関脇地位を与えられたのも、松平氏のおかげである。だが、この松平お抱えというのが雷電不運にもなった。実は力士番付決定権を持つ相撲の家元存在吉田司家は、熊本藩細川氏家臣にあたる。細川氏外様大名大物である。血筋誇る松平氏は、雷電横綱にしたければ外様細川氏に頭を下げなければならない。細川氏進んで雷電栄誉を与えたくはない。この大名どうしの意地張り合いが、雷電横綱になれなかった最大の要因といわれている。




東京書籍
「雑学大全2」
JLogosID : 14820936