SPDC
State Peace and Development Council
1962年のクーデターで実権を握ったネ・ウィンは、名目的な「民生化」(74年)、大統領職辞任(81年)の後もビルマ社会主義計画党(BSPP)議長にとどまり、独裁体制を続けた。しかし極端な経済の不振と国軍幹部の特権集団化は、国民の間に深い不満を醸成した。民主化の世界的な潮流もあり、88年3月、ビルマに民主化運動が急速に盛り上がった。学生が始めた民主化運動は、ネ・ウィンの議長職辞任後、野党政治家、一般市民、僧侶を巻き込み、首都ラングーン(現ヤンゴン)市内で連日数十万人規模の集会が開かれるに至った。こうした中、登場したのが、アウン・サン・スー・チーだ。政権側の対応は当初、後手に回ったが、兵士の一部が民主化勢力に加わる気配をみせた段階で全土に戒厳令を敷き、国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置。SLORCは90年の総選挙でスー・チーらの国民民主連盟(NLD)に惨敗したが、政権の座を降りなかった。97年、メンバーを大幅に入れ替え、内閣を改造して、その呼称を国家平和発展評議会(SPDC)と改めたが、実質的な変化はない。タン・シュエ議長がほぼ全権を掌握している。同議長は段階的な民主化を進める「民政移管計画」を発表したキン・ニュンを2004年10月に解任、また、ヤンゴンから北へ約300kmにある中部の都市ピンマナへの首都移転を推し進めるなど国際的な孤立を強めている。憲法制定に向けた国民会議が04年5月から8年ぶりに再開されたが、NLDは招待されず、05年1月に中断。欧米やASEANの一部から民主化の遅れを非難され、06年のASEAN議長国を辞退した。国名「ミャンマー」は独立以来、ビルマ語による正式名称であったが、89年6月、当時のSLORCは対外名称を「ミャンマー」とし、ビルマは民族名称とした。
| 朝日新聞社 「知恵蔵2009」 JLogosID : 14846371 |