暦の雑学事典 3章 暦の進化史 305 グレゴリオ暦【ぐれごりおれき】 グレゴリオ暦350年かかって普及 ◆復活祭の日取りが決められない!? ヨーロッパにおいては、西暦一五八二年にグレゴリオ暦への改暦が行なわれるまで、一六〇〇年間もユリウス暦が使われつづけた。グレゴリオ暦への改暦の理由は、春分が一六〇〇年間で一〇日ずれてしまい、キリスト教において重要な祝祭日である復活祭の日付が、春分を基準に正しく決めることができなくなったためだ。 グレゴリオ暦という名称は、改暦を断行したローマ法王グレゴリウス一三世にちなんだものだ。その改暦内容は次のとおりである。①西暦一五八二年一〇月四日(木)の次の日を一〇月一五日(金)にすること。②ユリウス暦では西暦年数が四で割りきれる年を閏年としているが、一〇〇で割りきれ、かつ四〇〇で割りきれない年は閏年としないこと。 ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦はすんなり行なわれたわけではない。一〇五四年に東西両教会が分裂したため、この時代のローマ法王とは西側ローマ・カトリック教会の首長であるにすぎない。しかも、一六世紀のルターらの宗教改革によって、プロテスタント(新教徒)がローマ・カトリック教会から独立して対立状態にあった。ローマ法王グレゴリウス一三世は、劣勢にあったカトリック勢力をまとめるために改暦を断行したともいわれる。このため、グレゴリオ暦はカトリック諸国・諸州ではほどなく採用されたが、プロテスタント諸国・諸州ではすぐには採用されなかった。ヨーロッパ主要国のグレゴリオ暦採用年は次のとおりである。・一五八二年(制定年)/イタリア、ポルトガル、スペイン、ポーランド、フランス、ベルギー、・一五八二~一五八七年/ドイツおよびネーデルランド(オランダ)のカトリックの諸州、チェコスロバキア、ハンガリー、・一七〇〇~一七〇一年/ドイツおよびネーデルランドのプロテスタントの諸州、デンマーク、・一七五二~一七五三年/イギリス、スウェーデン、フィンランド、・一九一八年/ソ連、・一九二四年以降/ギリシア、ルーマニア、トルコ 革命前のロシアやギリシアなどが二〇世紀になるまで、採用を拒否しつづけたのはローマ・カトリック教会と対立関係にあるギリシア正教の国々だからだ。 日本においては明治五年一二月三日を明治六年(西暦一八七三年)一月一日とする処置により、それまでの太陰太陽暦(天保暦)がグレゴリオ暦に切りかえられた。しかし、あまり知られていないが、グレゴリオ暦自体は、制定からわずか数年後の一五八〇年代後半に、ヨーロッパ人によって日本のキリシタンに伝えられていた。 日本実業出版社「暦の雑学事典」JLogosID : 5040063