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アツケシ場所
【あっけしばしょ】


(近世)江戸期の場所名。東蝦夷地のうち。西はモセウシ,東はチョウブシ,南は太平洋に面する。松前からの海岸里数およそ181里29町。場所の開設年代は寛永期と伝えられ,初期にはアツケシ交易場所・商場と称していた。享和2年クスリ場所との場所境が改められた。享和2年以前の区域は西はクスリ場所境のアチョロベツにあったが,この年それより東モセウシに改められた。東はネモロ(根室)場所境を往古フレシュマをもってあてていたが,その後ヲチイシと定め,さらに寛政11年チョウブシに改めた。内陸路ぞいではクスリ場所・ネモロ場所境として享和期にレウエナオシ(レニウエナオシ),さらにヲイラヲシ(ヲイラナヲシ)に場所境が移された(東西蝦夷場所境取調書上)。幕末期,海岸線での境界は西側はモセウシ(現釧路町別太川河口のベツブトより北へ17町)で,クスリ場所に接し(享和年間にはずっと西よりのアチヨロベツ川,現釧路町アチヨロベツが境だったという),東側はヲヱナウシ(現浜中町と根室市の境のオハッタラウシ川)がネモロ場所との境であった(廻浦日記)。はじめ松前藩主直領地,寛政11年幕府領,文政4年再び松前藩領,安政2年幕府領,同6年仙台藩領となる。「正保御国絵図」に「アツケシエゾ」,元禄13年「松前島郷帳」には「アツケシ」とあり,「津軽一統志」に「あつけし 川有」,「天保郷帳」には「アツケシ持場之内」としてアツケシ・ヌサウシ・ホニコイ・ノテト・シンテウニコロ・リルウ・タンダカ・テシトロクシ・ヲヤコツ・ベカンベウシ・ノコベリベツが見える。安永3年飛騨屋久兵衛の請負地となり,本州出稼ぎ者による漁業経営が始まる。文化9年幕府の直捌きが廃止され翌年より米屋藤兵衛,文政元年より竹屋林長七,同10年原六郎兵衛,その後山田屋文右衛門の請負地となる。以後明治2年の場所請負制度廃止まで同家による場所請負が継承される。運上金は安永3年からヱトモ・キイタツプとあわせ20年賦で5,400両,文化9年1,688両3分,天保10年から600両,ほかに弐分積金12両。産物は初期には鷹羽の産地として知られたが,享保期の対アイヌ交易の対象品として鯨石焼・鮫油・ラッコ皮・熊皮・干鱈・鷲羽があり「蝦夷一番之上湊」といわれた(蝦夷商賈聞書)。寛政年間初期にラッコ皮・トド皮,鷲羽,熊皮・熊胆のみならずニシン・カキの産地となっており,近年コンブの出産地になったとある。天保年間水産物ではニシン魚肥製造が中心で,安政期には輸出コンブの産出量が増大した。場所生産総量は天保年間3,750石余,安政4年3,437石余,文久3年1万7,266石うちコンブ7,553石・ニシン魚肥8,798石となっている。場所支配人は文化6年富右衛門,文政~天保年間嘉吉,安政年間重治,総乙名はカモイトイ,シツホカニ,宝暦~寛政年間イコトイ,つづいてマイトンゲ,金太郎,この間文化6年ベケレニシとある。場所内のコタンにはノコヘリヘツ・ベカンベウシ・ヲヤコツ・ノテド・ヘトイ・ホンコイ・ホントウ・ホロトウ・シンシラニコロなどがある(廻浦日記)。アイヌの人口は文化6年874,文政5年804,嘉永6年217,安政4年201。和人の人口は文化6年の会所の支配人1・帳役2,仮通辞1,番人11・雇方10,漁場としては「男は春海面氷の解を待て鯡を漁す。引続て鱈を釣り,椎茸を拾ひ,夏は鱒漁 昆布拾ひ,秋は鮭川へ登るを蝦夷人食料とす。引続てチカ漁 鯡海面氷る迄有之,寒中は鷲を射取,尾羽を荷物に出す。女は漁業手伝ひ,キナ 厚(子)を織て稼とす。鯡漁重の場所也」(東蝦夷地各場所様子大概書)とある。和人出稼ぎ地となって,ニシン・コンブ漁業が経営される漁場となった。一方,寛政期に幕府直轄地となりアツケシ~ネモロ・千島間の内陸交通路が開かれ,場所の中心であるヌサウシコタン・アンネベツに旅宿所が設置された。厚岸湾は江戸・下北地方・箱館への海上交通の要所として知られていたが,寛政11年幕府の御用船政徳丸が派遣され,江戸~アツケシ間の直航路が開かれた。これにより本州―道南―千島との中継地の役割をもつことになった。文化元年蝦夷三官寺の1つ国泰寺が設置され,トカチ以東エトロフまでの各場所を対象に教化活動を展開した。文化6年場所内の家作は会所・旅宿所・番屋・蔵・鍛冶屋・社祠などあわせて32棟。場所所属の船数は大小22隻で内訳は御用船1・通行船3・図合船10・釘合船8などとなっている。また,安政4年には中心集落のヌサウシコタンに会所2・備米蔵・合薬蔵・勤番所・細工所・船蔵・厩屋鍛冶屋各1,板蔵9,茅蔵3,御制札・勤番所,台場,神明社・稲荷社・弁天社などがある(廻浦日記)。出稼ぎ漁業者の出身地は必ずしも明らかではないが,厚岸の国泰寺に伝わる過去帳によれば,道南の箱館・松前,下北地方(盛岡藩領)の出身者が多かったと思われる。ただし,漁業者の多くは春から秋の漁業期に季節的に出稼ぎするものが大半で,外国船渡来の警備のため一部を残し漁期あけには松前和人地などに退去した。文政8年風蓮川・別当賀川口にネモロのアイヌたちが張り網してサケ漁業を行った。このため川上でサケ漁業に出稼ぎしていたアツケシアイヌにとって両河川のサケ漁業が皆無となり,ためにネモロ・アツケシ両場所のアイヌが対立した(フウレン・ヘトカ一件)。明治2年釧路国厚岸郡のうちとなる。




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「角川日本地名大辞典」
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