イソヤ場所
【いそやばしょ】

(近世)江戸期の場所名。西蝦夷地のうち。幕末期の海岸沿いでの境界は,南側ではホロヘツ(幌別川)を境にヲタスツ場所に接していた。この境については,よりヲタスツ側に寄ったユキナイであるとか,ビヤのあたりであるとか時期により相違があり,文政年間あたりから両場所を同一請負人が扱うようになると境界問題が目立たなくなったという。北側ではアブシタの岩壁(現蘭越町イセバチ鼻の北側,尻別川河口より北へ3kmほどの地点)を境にイワナイ場所に接していた。古くは雷電岬が境だったとも伝えられている(西蝦夷日誌)。はじめ松前藩領(下国氏知行地),文化4年幕府領,文政4年松前藩領,安政2年再び幕府領(秋田藩警衛地,同6年庄内藩警衛地)となる。場所請負人は,寛政年間恵比須屋治助,文政年間柳屋庄兵衛,天保年間住吉屋徳兵衛,嘉永・安政年間枡屋栄五郎,慶応年間佐藤栄右衛門。寛政4年頃の運上金は100両。文政年間には運上金137両,ほかに秋味冥加55両,雑魚冥加5両,鱒場冥加7両,鱈冥加3両,上乗金7両,差荷金13両,積金4両永80文2分があり,慶応年間までほぼ同様であった。「天保郷帳」には「イソヤ持場之内」としてイソヤ・シユマコタン・ノツト・シリベツのアイヌ居住地が記されている。運上屋は古くはシユマコタンにあったが,のちイソヤに移った。安政元年の概況は,建坪96坪の運上屋1棟,小家95軒,船291艘があり,産物は鯡・鮑・煎海鼠・鮃・
・鱒・昆布など産高計1,866石5斗。嘉永6年の鰊産額は7,728石で,うち運上取上764石・二八高485石・浜中買上1,975石・出稼および永住4,503石となっており,場所請負人が鰊総産額の4割程度を支配していたことがわかる。安政4年には雷電岬周辺の危険な海浜を避けて,イソヤ~イワナイ間を陸路で連絡する山道が開かれた。アイヌ戸口は,寛政4年26軒・125人,文政改24軒・83人,安政改5軒・17人とあり,激減の傾向を示している(松前蝦夷地場所請負制度の研究)。明治2年後志(しりべし)国磯谷郡のうちとなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7000588 |





