ヱトモ場所
【えともばしょ】

(近世)江戸期の場所名。東蝦夷地のうち。西はウス場所境チマエベツ,東はモロラン場所境チリベツ。はじめ松前藩領。寛文9年頃は金子市左衛門知行地,享保年間には松前内記知行地。天明3年頃の記録に「運上金安永中八十両外五両,先年松前内記預り申候,其後土橋嘉六預り,又安永中,細界惣左衛門預り」とある。以後,天明4年以前に松前藩直領となり,寛政11年幕府領,文政4年松前藩領,安政2年再び幕府領(南部藩警衛地),同6年盛岡(南部)藩領となる。安永3年飛騨屋久兵衛が20か年季で請負人となり,飛騨屋は福山の大津屋を代理として営業させたが,天明5年場所を返納。その後,箱館の笹屋治兵衛が5か年運上金97両で請負い,次いで寛政2年には箱館倉部屋太兵衛が運上金75両で請け負った。幕府領となって直捌がなされたが,文化9年直捌が廃止され,請負入札された際には箱館の鍋屋左兵衛が運上金152両で落札。以後,請負人は隣接するホロベツ場所をも合わせ請け負い,阿部屋甚右衛門・井口兵右衛門・福島屋新右衛門・岡田半兵衛・久右衛門・治郎兵衛・恵比寿屋半兵衛と転々とし,明治2年最後の請負人は箱館の種田徳之丞であった。この間,当場所とホロベツ場所とは同一の請負人で,運上金なども合算されている。さらにのちには当場所からモロラン場所が分立した。ヱトモ場所がヱトモ・モロランに二分された時期は,寛政11年の直捌制実施の頃と推定されるが,しばらくはモロラン場所がヱトモ場所の支場所的な位置にあり,対等の2場所となったのは万延元年のことである。天保~安政年間の間は,ヱトモ・ホロベツ・モロラン3場所合わせて運上金67両2分,ほかに積金1両1分永100文であった。慶応年間には3場所合わせて,運上金67両2分,別段上納14両3分永50文。この内訳は,ヱトモ場所が運上金18両,別段上納4両。ホロベツ場所が運上金45両,別段上納9両3分永50文。モロラン場所が運上金4両2分,別段上納1両。「天保郷帳」には「ヱトモ持場之内」のアイヌ居所としてシユブキの地名が,「モロラン持場之内」としてモロランの地名が見える。文化6年のヱトモ場所の概況は,会所1・下宿所1・倉庫2,場所内雇10人,出張番屋1。安政元年では,建坪156坪の会所1棟,勤番所2棟(モロラン64坪余・ヲエナウシ22坪余),通行家5軒,砲台1,馬72頭,船37艘を擁し,産物は鰊・鰯・鮭・鱒・鰈・帆立貝・いりこ・昆布・布海苔など計111石4斗。文化4年のアイヌ総人別は175人(松前蝦夷地場所請負制度の研究・新北海道史2)。明治2年胆振(いぶり)国室蘭郡のうちとなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7001053 |





